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神戸地方裁判所 昭和53年(わ)215号 判決 1987年11月17日

主文

被告人両名はいずれも無罪。

理由

(凡例)

以下の判文では、次のような用語法、略称、略号等を用いる。

・公判調書中の供述記載、証人尋問調書中の供述記載が証拠となる場合でも、単に、供述・証言と表記する。

・司法警察員、検察官に対する供述調書は、員面・検面とし、捜査復命書は捜復と略記する。

・例えば、司法警察官(検察官)に対する昭和四九年四月一〇日付供述調書については、四九・四・一〇員面、四九・四・一〇検面と略記する。

・謄本・抄本については、これらの表示を省略する。

・甲山学園の職員・園児・捜査官の氏名などについては、単に姓または名のみで示す場合もあり、園長・副園長・指導員、保母・警部補等の表現は、事件当時あるいは取調当時のものを用いる。

・「被告人丙」については、便宜上「被告人丙」と表記する。また、「被告人」の肩書を省き、丙、丁と表記する場合もある。

・「昭和」の年号を省略する場合もある。

・月日のみで示す場合は、原則として昭和四九年のそれを指す。

第一本件公訴事実と争点

本件公訴事実の概要は、

「被告人丙は甲山学園園長として昭和四七年六月から同四九年五月まで勤務していたもの、被告人丁は同学園指導員として同四七年一一月から勤務しているものであるが、同学園青葉寮の収容児童・甲が殺害された殺人被疑事件につき、司法警察職員及び検察官が同学園保母・Sを同四九年四月七日逮捕、勾留して捜査したことを違法であるとして、神戸地方裁判所尼崎支部に提起された原告Sほか二名、被告国及び兵庫県の同支部昭和四九年(ワ)第三一一号国家賠償請求事件につき、いずれも同支部法廷において、証人として宣誓の上、甲が殺害された同四九年三月一九日午後八時ごろのSのアリバイに関し、

第一  被告人丙は、昭和五一年一月一六日及び同年二月二〇日、原告ら訴訟代理人及び被告ら指定代理人の尋問に対し、

一  昭和四九年三月一九日午後七時三〇分ごろから同被告人が同学園管理棟事務室を出るまでの間の外部から同事務室への電話と同事務室から外部への電話の順序につき、SからAへ、SからCへ、NからGへの関連する各電話とFからの電話との前後関係について記憶がないのに『まず、Fから電話があり、次いでSからAへ、SからCへ、NからGへの各電話があつた』旨

二  右一記載の電話の後、Hから同事務室へ電話があり、Nが通話中、同人から時刻を聞かれて同被告人の腕時計を見たが、その時刻について記憶がないのに『その時刻は八時一五分であつた。』旨

第二  被告人丁は、昭和五一年一〇月一五日、原告ら訴訟代理人の尋問に対し、

一  真実は、昭和四九年三月一九日午後七時五〇分ごろから同八時二〇分ごろまでの間、終始同学園若葉寮職員室にいたのに『午後七時三〇分ごろから午後八時一五分過ぎごろまで丙、S、Nとともに管理棟事務室にいた。その間NがHと電話で通話した際、丙の腕時計をのぞき込むと午後八時一五分であつた。そのあと丙は、同学園同事務室を出て同学園を出発したが、出発までの間、午後八時ごろ一度だけ若葉寮職員室へ行きすぐ管理棟事務室へ戻つた。』旨

二  真実は、右若葉寮職員室にいた際、Oから聞いて始めて甲の行方不明の事実を知つたのに『管理棟事務室にいた際、事務室入口付近で、多分Sの声だと思うが、甲がいなくなつたと聞いた。』旨それぞれ、自己の記憶に反して虚偽の陳述をし、偽証したものである。」

というのである。

これに対し、被告人両名及び弁護人は、「被告人らはいずれも証言当時の記憶どおりの事実を証言したものであつて、虚偽の証言を行つたことはない。」旨全面的に公訴事実を否認している。そこで、当裁判所は、審理の結果、被告人らはいずれも無罪であるとの結論に達したので、以下その理由を明らかにする。

第二本件の概要

一  甲山学園の概況等

甲山学園は、兵庫県西宮市甲山町五三番地所在の社会福祉法人甲山福祉センターの経営にかかる精神薄弱児施設であり、原則として一八歳未満の精神薄弱児を収容した上、日常生活を通じての生活指導・訓練等を行い、学齢期に達した者に対しては小・中学校教育を実施していた。学園内にある施設としては、重度の精神薄弱児を収容する若葉寮、中・軽度の精神薄弱児を収容する青葉寮のほか、園長らの執務する事務室などのある管理棟、青葉寮収容児童の食堂等のあるサービス棟、授業の行われる学習棟・新学習棟(学習棟二階は職員寮となつている。)、用務員宿舎などがあり、その配置状況は別紙のとおりである。

管理棟は、東側が表出入口、西側が裏出入口となつている平屋建の建物で、裏出入口を入つた右側が事務室となつている。青葉寮は、運動場に面した玄関を中心に「へ」の字型をした平屋建建物で、玄関を入つたところがテレビ等の設置されているデイルームとなつており、デイルームの西側が男子棟、東側が女子棟である。一方、若葉寮は、中庭を有する「ロ」の字型の平屋建建物で、玄関右側が職員室となつている。

社会福祉法人甲山福祉センターは、甲山学園のほか特別養護老人ホーム・甲寿園と精神薄弱児通園施設・北山学園をも経営しているものであるが、これら施設にはいわゆる押ボタン式電話システムが採用されており、甲山学園の管理棟事務室、同青葉寮男子保母室、北山学園事務室、甲寿園一階寮母室、同二階寮母室に各一台のほか、付属施設四箇所に六台の合計一二台の電話機が分置されている。そして、右一二台の電話機には、それぞれ甲山学園用(西宮局二六―八二一一番)、北山学園用(同局二六―八〇二七番)、甲寿園用(同局二六―八二三六番、八二三七番)の四本の回線番号が表示され、いずれの電話機にも右四本の回線中の未使用の回線を使用して外部へ通話することが可能であり、また、外部からどの回線番号を使用してかけられてきた電話でも通話可能である。なお使用中の回線についてはすべての電話機の当該回線番号のランプが点灯する仕組みになつている。

昭和四九年三月当時、甲山学園の職員は園長以下二九名で、青葉寮には指導員三名、保母七名、若葉寮には指導員六名、保母五名が配置されていた。

二  本件起訴に至る経緯等

1 昭和四九年三月一七日の午後、青葉寮の園児・乙子が行方不明となつたことから、同日から翌々日の一九日にかけて、学園の職員や警察官らによる捜索活動が行われたが、乙子の所在等が発見されるに至らず、更に三月一九日の午後八時ごろには、当夜の青葉寮担当宿直職員(M指導員及びO保母《以下、「O」という。》の両名)が同寮収容児童・甲の姿が見えないのに気付き、学園内を捜索した結果、同学園内の浄化槽内から乙子と甲の二人が相次いで溺死体で発見された(以下において単に「事件」という場合は、特に断らない限り甲死亡の件をいうものとする。)。

2 兵庫県警察本部では、現場の状況等からして、右事件は同学園の部内者による殺人事件であると断定し、学園関係者らの事情聴取を重ね、犯行推定時刻(警察側では午後八時過ぎごろと見ていた。)ごろに甲殺害の犯行に出ることの可能な職員のうちアリバイの存する者を容疑圏内から消失しながら嫌疑の対象者をしぼりこむという形で捜査を進めるうち、甲死亡の件については同学園の保母であつたSの犯行を窺わせる園児供述を得たことなどの事情から、昭和四九年四月七日同女を甲に対する殺人の被疑事実で逮捕し、兵庫県警察本部付設の代用監獄に留置の上、更に捜査を継続した。しかしながら、神戸地方検察庁尼崎支部においては、勾留期間の満了する四月二八日の時点で処分保留のまま同女の身柄を釈放し、その後の捜査の結果公訴を維持するに足りる証拠が不十分であるとして、昭和五〇年九月二三日同女を不起訴処分に付した(以上の捜査を「第一次捜査」という。)。

3 S保母が逮捕されるや、学園内においては、Sは無実であり警察の右逮捕は違法不当なものであると主張し、同女の早期釈放を求める活動が、青葉寮指導員・Nを中心とする学園関係者の有志によつて展開されていたが、S釈放後の四九年五月ごろ、Nらを中心として「Sさんの自由をとりもどす会」(以下、「とりもどす会」という。)が結成され、Sの無実を民事訴訟の場で明らかにするため、S、N及びB(学園指導員)の三名は、Sの逮捕及びこれに伴う一連の捜査活動によつて肉体的精神的な苦痛をこうむつたとして、同年七月三〇日神戸地方裁判所尼崎支部に、国及び兵庫県を被告として国家賠償請求事件(以下、「国賠訴訟」という。)を提起した。

右国賠訴訟における原告らの主張の骨子は、「捜査機関においては、甲殺害の犯行推定時刻を昭和四九年三月一九日の午後八時ごろとしているところ、Sは同日の午後七時三〇分ごろから午後八時一五分ごろまでの間、丙園長、N指導員、丁指導員と一緒に終始管理棟事務室にいたのであるから、Sにはアリバイが成立し、したがつて、同女の無実が明らかであるのに、これを逮捕・勾留した捜査機関の行為は違法・不当である。」というものであつた。

4 右国賠訴訟は昭和四九年一一月二二日を第一回口頭弁論期日として、同五三年三月一七日の第二八回口頭弁論期日に至るまで審理が行われたが、その間、被告人丙は第八ないし第一〇回の各口頭弁論期日(昭和五〇年一二月一九日、五一年一月一六日、同年二月二〇日)に、また被告人丁は、第一五回、第一六回の各口頭弁論期日(昭和五一年一〇月一五日、同年一一月一九日)において、それぞれ証人として宣誓の上、Sのアリバイを窺わせる証言(以下、「国賠証言」という。)をなし、N指導員は、第一一回(昭和五一年三月一九日)、第一三回(同年六月一八日)の各口頭弁論期日及び同年九月一七日の期日外の証拠調期日に、原告本人として、丙・丁両名とほぼ同趣旨の陳述を行つた。

5 Sについては前示のように一旦不起訴処分に付されたのであるが、神戸検察審査会は、甲の両親の申立を契機に五〇年一〇月八日職権で立件した上、五一年一〇月二八日「不起訴不相当」とする議決を行つた。その後右議決書の送付を受けた神戸地方検察庁は再捜査に着手し、国賠訴訟記録、Sのアリバイ関係の検討、当時の関係者、園児らに対する事情聴取等を重ね、昭和五三年二月二七日Sの再逮捕に踏み切ると同時に、被告人丙及び同丁を前記国賠訴訟における偽証の被疑事実で逮捕し、同年三月一九日被告人両名を起訴した(以上の捜査を「第二次捜査」という。)。

なお、Sも五三年三月九日殺人の公訴事実で起訴され、本件被告人両名に対する偽証被告事件と併合審理されたが、証拠調を終えた右殺人被告事件が分離され、Sについては、昭和六〇年一〇月一七日神戸地方裁判所で無罪の判決が言渡され、検察官の控訴申立により大阪高等裁判所で審理中である。

右無罪判決の理由の骨子は、「Sが甲を青葉寮外に連れ出そうとする現場を目撃したとされている園児数名の証言はいずれも信用性に乏しく、Sの警察官に対する自白も断片的・抽象的で真実性を欠き、当時の甲及びSの各着衣の構成繊維が相互に付着していたという鑑定結果も、他の証拠関係に徴し事件との関連性を認め得ないので、アリバイの有無などの点を論ずるまでもなく、Sが甲殺害の犯行に及んだとする公訴事実を認めるに足る証拠がない。」というものであつた。

第三本件各公訴事実に対する証拠判断についての総括的考察

一  証拠判断の手法等について

本件は、精神薄弱児の収容施設である甲山学園で発生した「園児殺害事件」の真犯人として逮捕勾留された保母(S)の無実を確信する同学園の職員らが提起した国家賠償請求訴訟事件において、右Sのアリバイを立証する過程でなされた証人尋問の際、同学園の園長をつとめていた被告人丙と、同学園若葉寮担当の女性指導員であつた被告人丁の両名がなした証言につき、偽証罪を構成するとして起訴された事案である。国家賠償請求訴訟という民事訴訟の場での証言が偽証として取り上げられていること、被告人丙については証言後約二年、被告人丁については証言後約一年半経過した時期にそれぞれ強制捜査が行われたすえ起訴されていること、本件起訴の背景には前記Sに対する殺人の公訴事実についての検察官による立証活動との関連性が大きいという事情のあることなどの諸点で、特殊な性格をもつ事案ということができる。

ところで、偽証罪は、宣誓した証人が、証人自身の証言当時の記憶に反することを認識・認容しながら、あえて自らの記憶に反する事実を証言することによつて成立するものであり、その証言内容が客観的な真実に反しているか否か、あるいは、齟齬しているかどうかは、偽証罪の成否に直接の影響を及ぼすものではない。そこで、偽証を公訴事実とする被告事件にあつては、証人の証言時という限られた時点において、当該証人がその証言事項に関しいかなる記憶・認識を有していたと認められるか、という点が有罪・無罪の判断を分ける重要な立証命題となるわけである。しかしながら、こうした証言時での証言事項に関する記憶・認識という要証事実は、直接的には証人(すなわち、被告人両名)の内心に立ち入つた上で明らかにされなければならないものであるから、被告人らの「自白」が存し、かつその自白の信用性が極めて高いような場合であればともかく、本件のように、被告人らの証言当時の記憶の有無・内容等が強く争われている事案では、その証拠判断に多くの困難を伴うことは言うまでもない。

ところで、検察官は、本件各公訴事実につき、まず証言事項に対応する事実関係に関し本件で取調べられた各種証拠によつて真実と思われる客観的な事実を明らかにした上、これら検察官が客観的真実だと主張している事実と本件各国賠証言との食い違いを指摘し、その食い違いの程度・内容、証言に至るまでの被告人らの言動等間接事実を総合して被告人らの主観的事情(証言と記憶内容との齟齬、偽証の犯意等)を導き出して推認するという手法をとつており、このような証拠判断の手法が一般的に是認されている最も適切な方法であると思料されるので、当裁判所も、かかる方法で証拠判断を進めることとする。

しかしながら、本件各公訴事実で取り上げられている証言事項は、昭和四九年三月一九日の午後七時三〇分ごろからせいぜい一時間程度の短い時間帯での出来事に関するものであり、しかもその内容は、短時間のうちにやりとりされた電話の順序(公訴事実第一の一)、通話の時刻(公訴事実第一の二)、一人の女性指導員が約三〇分間ほどの間どこにいたのか(公訴事実第二の一)、また、同女がどこで誰から園児行方不明の情報をはじめて聞いたのか(公訴事実第二の二)といつた、それ自体すこぶる単純で、見方次第ではごく些細で日常的な出来事についてのものである。

したがつて、かかる出来事は、何びとにとつても精密・正確な記憶を長い期間にわたつて保持しがたいものであるから、検察側証人の証言によつて検察官のいう客観的真実を明らかにすること自体極めて至難であり、事柄の性質上長期間の時間的経過のうちに検察側証人の事件後間もないころの供述・発言内容が当公判廷における証言時までの間に微妙な変遷を見せることもある程度やむを得ず、その供述の変遷経過を踏まえた上で各証言の信ぴょう性を的確に評価する作業には多くの困難が伴うことは言をまたない。

一方、被告人両名の本件国賠証言もまた、実際に体験したと思われる時点から証言時まで、被告人丙の場合は約二年、被告人丁の場合は約二年半というかなりの年月を経過しており、本件証言事項についての供述内容が事件後証言時に至るまで、終始一貫していないこともまた、いわば当然と言えよう。

そこで、本件においては検察側証人及び被告人両名の供述の変遷に関する評価がほぼ並行した形で重要な論点となつているわけであるが、刑事訴訟の構造・挙証責任の分配などの原理に照らし、供述変遷に対する評価の手法において、検察側証人の証言についての場合と被告人らについての場合との間には次のような相違点があると言わなければならない。すなわち、偽証の公訴事実については検察官の側が挙証責任を負い、被告人らの本件国賠証言が記憶に基づかない虚偽の証言であるとの事実について、合理的な疑いを差し挾む余地はない程度までの立証を遂げるべき立場にあるのであるから、本件国賠証言の虚偽性を肯認するのに必要な限度で、検察官主張の客観的事実・被告人両名の記憶喚起の過程に不自然・不合理な点がある事実につき、いわゆる厳格な証明を尽くす義務を負担している。したがつて、裁判所の側から言えば、検察側証人の証言に関してはその供述変遷の状況につき是認し得る相当な理由・事情が存するか否か厳格な審査を行わなければならない。他方、被告人両名の事件後間もないころの供述・発言と国賠証言に至るまでの供述変遷の経過に関しては、当該国賠証言が被告人らの記憶に基づかない虚偽の証言であるとの検察官の主張事実の立証に「合理的な疑い」を抱かせる程度のものであるかどうかという視点に立つた上での判断に必要な範囲で吟味することが求められていると言うことができる。

言い換えれば、一般的に言つて前後一貫性を欠く供述については、供述変遷の理由・状況に相応の合理的事情が認められない限り変遷後の供述の信用性にマイナスイメージを生じさせることを否定できないが、偽証罪の刑事責任を負わせるかどうかが論点になつている際には、通常の証言の信ぴよう性評価の場合とは異なり「疑わしきは被告人の利益に従う」との刑事裁判の鉄則にのつとつた上での検討を尽くさなければならないのである。

以下、当裁判所の示す「供述変遷をめぐる証拠判断」について、検察側証人の証言の証拠価値を論ずる際の判断基準と、被告人らの国賠証言の虚偽性を肯定し得るかどうかの場面で示す判断基準との間に違いがあるとの印象を抱く向きがあると思料されるが、これは、右のような判断レベルの相違によるものである。

なお、以下の説示に際しては、被告人らの国賠訴訟における証言内容と同人の記憶との食い違いを「主観的虚偽性」と言い、右証言内容と客観的な真実との食い違いを「客観的虚偽性」と言うこととする。

二  本件で検察官が客観的真実だと主張している事実の概要

検察官が、本件において、昭和四九年三月一九日の甲山学園関係者らの動静につき、客観的な真実であるとして主張している事実関係の概要は次のとおりである。

1 三月一九日の夕刻までの状況について

被告人丙は、同日の午前八時三〇分ごろ出勤し、午前中は管理棟事務室で職員らによる乙子捜索の指揮をとるなどしていたが、午後二時三〇分ごろ学園を出発して、自動車で兵庫県庁に赴き、乙子行方不明の件について報告した後、サンテレビ放送局に立ち寄るなどして、午後五時ごろ帰園した。その後、管理棟事務室に戻り、在室していた副園長・Dらと一緒になつたが、Dらは午後七時過ぎごろ帰宅したため、以後は一人で同事務室にいた。

被告人丁は、この日代休となつていたが、午前八時四五分ごろ出勤し、その後Nとともに国鉄元町駅等で乙子捜索のポスター貼りをして午後二時三〇分ごろ一旦帰園し、捜索ビラ(写真のないもの)の製作などを手伝い、午後四時ごろ再度学園を出発して、午後六時ごろまで国鉄西宮駅でのビラ配りに従事し、午後七時前ごろ一人で学園に帰り、若葉寮職員室でNの帰園を待つていた。

一方、被告人丁とは別個にビラ配りにたずさわつていたN及びSも、午後七時三〇分ごろ帰園してきたので、丁は正門付近まで出てNらを出迎え、N・Sとともに被告人丙一人在室していた管理棟事務室にはいつた。

2 三月一九日夜の状況について

(一) 管理棟事務室内の状況

被告人丁、N及びSの三名は、前示のとおり管理棟事務室内に入り、Nが乙子の捜索活動の状況等を丙園長に報告するとともに、Sが夜食用として買つていたパン、みかんなどを出し、これを皆で食べるなどしていたが、そのうち、Sが当時生け花を習いに行つていたA方での相弟子・Cの夫・C'がラジオ大阪に勤務していたことから、同人に依頼してラジオで乙子の捜索放送を流して貰おうと提案し、C方の電話番号を確認すべく、管理棟事務室に設置されている電話機を使用してAに電話をかけ、同女から右電話番号の教示を受けた。そこで、SはCあて電話をかけ、右電話を引き継いたNがC’に対し乙子の捜索放送を依頼した。同人はこれに対し「五分後に大阪放送へ電話するように。」と述べて電話を切つた。

ところで、NがCとの前示電話を終えて間もなくのころ、青葉寮の園児・F'の父FがF'と話をするため外部から学園に電話をかけてきた。その際、管理棟事務室内で右電話を受けたNは、これを取り次ぐべく青葉寮の男子保母室に内線電話をかけたが、これが通じなかつたため、Nは管理棟事務室を出て青葉寮に出向き、M指導員に右電話を取り次ぎ、すぐ管理棟事務室に戻つた。Mは同寮男子保母室の電話機に前示Fからの電話を切り替えた上、F'及びMがFと通話した。

一方、管理棟事務室に引き返したNは、前示Cへの電話を終えて約五分が経過したころを見計らつて、同事務室から大阪放送へ電話しようとしたが、Fが甲山学園用の電話回線を使用してF'及びMと通話中であつたため、北山学園用の電話回線を使用することとし、同回線を使つて大阪放送に電話をかけ、前示当直記者のGに対し乙子の捜索放送を依頼し、その応諾を得た。

そして、右大阪放送への電話が終了した直後の午後七時五〇分前ごろ、神戸市葺合区の神戸国際会館内「誕生日ありがとう運動本部」事務所から同本部会員のHが学園に架電してきたので、管理棟事務室にいたNが同事務室の電話機でHと通話した。その際、Nはかねてから学園園児らの写真撮影をしていたHに対し、乙子捜索に使用する同女の写真の焼き増し方を依頼したが、Hに乙子の顔の見覚えがなかつたことから被告人丙が乙子の写真をHに届けることになり、被告人丙及びNとHとの間で待合わせ場所を国鉄三宮駅前の神戸新聞会館玄関、待合わせ時刻を午後八時四五分とする約束がなされた。Hとの右電話は午後七時五十数分ごろまでの間に終了し、その後、被告人丙は同事務室を出て自己の乗用自動車を運転して神戸新聞会館に向かい、午後八時四五分ごろ同新聞会館に到着して、Hに乙子の写真を手渡した。

一方、被告人丁は、前示のとおり午後七時三〇分ごろS及びNとともに管理棟事務室に入つたが、その後、同事務室を出たり入つたりした上、遅くとも午後七時五〇分ごろまでには若葉寮職員室に赴き、以後午後八時二〇分ごろ甲が行方不明になつたことを知らされるまで終始同職員室に在室していた。また、被告人丙がHと会うべく管理棟事務室を出ていつてからは、同事務室の在室者は、S及びNの両名となつたが、Sは被告人丙が事務室を出ていつた直後、同事務室を出ており、更に、NはSが管理棟事務室を出ていつた後の午後八時一五分ごろ若葉寮職員室に赴き、被告人丁とともに甲行方不明の事実を知らされる午後八時二〇分ごろまで同職員室に在室した。

(二) 若葉寮職員室内の状況

若葉寮保母のYは、同日の当直勤務者ではなかつたが、外出中の同寮保母・Kから乙子捜索の状況等を問い合わせる電話が午後八時にかかつてくる予定となつていたため、午後七時五〇分ごろに、学習棟二階の自室を出て、走つて若葉寮職員室に赴き、同室内に入つた。そして、午後八時までにまだ時間があつたので、ロッカーから担当園児の行動記録を取り出したが、その際、前記のとおり同職員室には既に被告人丁が在室しており、何やら忙しそうにしていたため、被告人丁に手伝うことがないかどうか声をかけた。しかし、被告人丁が、Yの申出を断つたので、Yは自分の机に座つて前記行動記録の記帳を始め、また、被告人丁も机一つ隔てたYの右隣の席に座つて作業を開始した。

Yと丁とが共に机に座つて作業中の午後八時、Kから電話がかかり、Yが右電話を受けてKに対し乙子の捜索状況に格別の変化のないことを告げるとともに、これ以上Kが電話をかける必要もないと考え、作業中の丁に意見を求めたところ、同女も同意見であつたことから、YはKにその旨伝えて電話を切つた。

なお、YとKとの間では、あらかじめ、乙子捜索の支障とならないようにとの配慮から右電話に際しては北山学園用の回線を使用する約束があり、この約束に基づき、Kは北山学園用の電話回線を利用して電話をかけてきたものである。

Kとの電話を終えたYは自分の席に戻り、前同様の作業をしていたが、午後八時一五分ごろ、Nが若葉寮職員室に来て、机に座つていた丁と話を始めた。

ところで、後記のとおり、青葉寮保母のOは同寮園児・甲の行方不明を知り、午後八時二〇分ごろ若葉寮に赴き、職員室の窓ごしに、Yらに対して甲が来ていないかを尋ね、これにより甲の行方不明を知つたYが職員室を出て若葉寮内を捜し、被告人丁、Nの両名も甲を捜すため職員室を出た。

(三) 青葉寮内の状況

本件当夜の宿直勤務者は、M指導員とO保母の両名であつたところ、青葉寮の園児らの大部分は、いつもと同じように午後七時ごろからデイルームで児童向けのテレビ番組を見て時間を過ごし、またMは年少児の就寝介助の作業を行つたりするうち、N指導員がFに電話がかかつていると知らせにきたので、男子棟保母室の電話機でF'に通話させた。そして、午後八時過ぎごろ、就寝時刻となつた年少の園児らがそれぞれ自室に落ち着いたころを見計らい、Mにおいて男子棟各室を見回つたところ、甲の姿が見当たらなかつたため、M・Oの両名で手分けして青葉寮内での甲の捜索を行つた。

午後八時七、八分ごろ、Mが寮外に出て捜索をつづけていたところ、グランドで一人佇立しているSの姿を見かけたので、同女に甲がいなくなつたことを伝え、一方、Oは甲が午後七時三〇分ごろまでデイルームにいた事実を確認したことから、これをMに通報しようと同人の後を追つてグランドに出た上、右事実をMに告げ、直ちに青葉寮に戻ろうとした際、背後からSに「どないしたん。」と声をかけられ、同女に甲が所在不明になつたことを話した。その後、Oは午後八時二〇分ごろ若葉寮職員室に出向き、同室にいたY保母に甲が来ていないか尋ねたりした。

以上が検察官が客観的真実だと主張している事実の概略である。

三  証拠上ほぼ間違いないと認められる事実の概要

関係証拠に徴すると、前示検察官主張の客観的事実のうち、「三月一九日の夕刻までの状況について」と題する部分で摘示した事実経過はおおむねそのとおり認められ、その他、本件において証拠上ほぼ間違いないと認められる事実は概略次のとおりである。

① 昭和四九年三月一九日の午後七時三〇分ごろ、被告人丁・N・Sの三名が管理棟事務室内にはいり、Nがその場にいた被告人丙に対して当日の乙子の捜索活動の状況等を報告し、Sが夜食用として買つてきたパンやみかんなどを出し、これを皆で食べるなどしたこと、

② 被告人丙が後記Hに乙子の写真を届けるため学園を出発するまでの間に、管理棟事務室内で学園の外部との電話のやりとりがあつたが、右電話は、F(青葉寮の園児・F’の父親)からかかつてきたもの(F電話)、SがAにかけたもの(A電話)、SがCにかけたもの(C電話)、Nが大阪放送にかけたもの(G電話)及びHからかかつてきたもの(H電話)であつたこと、

③ 前示各電話のうち、F電話がかかつてきた時刻は午後七時四〇分ごろであつたこと、

④ F電話がかかつてきた際、Nが右電話の取り次ぎをするため、青葉寮に出向いたこと、

⑤ SはAに電話をかけてC方の電話番号を聞き、また、C電話におけるC’の指示に基づいて、Nが大阪放送に架電したという一連の経緯に徴し、右三本の電話の順序は、論理的に見て、A電話・C電話・G電話の順であつたと確定し得ること、

⑥ H電話は、被告人が管理棟事務室内にいた間の一連の電話のうち最後のものであつたこと、

⑦ 被告人丙の自動車を運転して甲山学園から神戸新聞会館まで赴く所要時間に関して行われた走行実験の結果によると、約四〇分(四九年三月二六日の実験結果)、約三三分(同年六月七日の実験結果)、約三四分(六月一一日の実験結果)という数値が測定されていること、

⑧ 本件当夜の午後八時ごろ、若葉寮の保母・Kが外出先から若葉寮職員室にいた同寮の保母・Yに電話を入れ、乙子の捜索状況について問い合わせてきたこと、

以上の事実が明白である。

第四被告人丙に対する公訴事実についての検討及び判断

一  被告人丙の国賠訴訟における証言内容の要旨

被告人丙は、前示国賠訴訟の第九回(昭和五一年一月一六日)及び第一〇回(同年二月二〇日)口頭弁論期日の証人尋問において、原告ら訴訟代理人及び被告ら指定代理人の質問に対し証言しているが、同証言中、被告人丙に対する公訴事実に関連する主要な部分の要旨は次のとおりである。

A 昭和四九年三月一九日午後七時三〇分ごろから午後八時一五分ごろまでの間に甲山学園管理棟事務室の電話機で外部にかけたり、外部からかかつてきた電話のうち、一番最初のものは、午後七時四五分ごろ青葉寮園児のF’の父・Fからかかつてきた電話である。この電話はNがとり青葉寮を呼び出したが誰も出なかつたので、Nが青葉寮に電話の取り次ぎに行き、二、三分で戻つてきた。Nが戻つてきたのち、Sが、同女の通つているお花の先生のところに「ラジオ大阪の偉い人」の奥さん(C)も習いに来ているという話をしたので、その人に頼んで乙子のことをラジオで放送してもらおうということになり、Sがお花の先生(A)に電話をかけてC方の電話番号を聞いた。次いで、SがC方に電話をかけ、Nが途中で替わつて事情を説明していた。そして、Cの指示により、右電話が終了して五分後に、Nがラジオ大阪(G)に電話して放送を依頼した。その後、「お誕生日ありがとう運動」本部のボランティアであるHから電話があり、私が右電話をとつて、Nに替わつた。この電話が、前示時間帯の電話の最後のものである。

B NはHとの電話において、同人に対して乙子の写真の焼き増しを依頼するとともに、私が神戸新聞会館に出向いてHに乙子の写真を渡すことを決め、更に、Hと私との待合わせ時刻を午後八時四五分と決めたが、その際、時計を持つていなかつたNが私に時刻を聞いたので、私が自分の腕時計を見ると、午後八時一五分だつた。その後私は直ちに事務室を出て神戸新聞会館に向かつた。当初から八時一五分という時刻の記憶は鮮明にあつたが、どの場所で八時一五分だつたのかという点がはつきりしなかつた。しかし、四九年六月七日と同月一一日の検察官との現場検証の際、Nが私の時計を見て待合わせ時刻を決めたのが八時一五分であつたということを鮮明に思い出した。

以上が被告人丙の国賠証言の要旨であるが、検察官において具体的に虚偽の証言と指摘している部分の問答内容は、次のとおりである。

(問)電話の順番がいま証言なさつたとおりのことがどうして言えるかということについてご説明していただけませんか。F’君のお父さんからの電話あたりから。

(答)学園の電話は先程からなんべんも言いますようにボタン電話でして、甲山学園、甲寿園、北山学園、甲寿園に二つあるわけですけれども、四つの電話線が一つの電話機の中にはいつているわけです。そして、その電話機の置いてある場所で四つの電話とも呼び出し音が鳴るわけですね。それを見て、どの学園に電話がかかつてるんかということで赤い電気がつきますから、自分の所の電話線にかかつているときだけ取るわけですけれども、その取るのも甲山学園には三台ありましてね、とにかく早く取つた方が聞くということに、いきおいなるもんですからね、随分何度も呼び出し音がありそして誰かが取つているということですけれども、私が事務所で取つたもの、あるいは事務所の中でとつた人のものしか記憶はないわけですけれども、それでその取つたものの記憶のあるものの順番から言いますと、先程も言いました七時四五分と思われる頃にF’君のお父さんからの電話があつたと、これは一緒にいたN君がとつてますね。それから、その途中にまた呼び出し音が鳴つたりしていたと思いますけれども、今度はSさんの方からお花の先生、そしてラジオ大阪の偉い人のおうちに電話をして、そしてやがてN君がラジオ大阪に五分後に電話した、これは記憶があります。目の前にありますから、それからもう一つは、その後でとにかく出発する直前に「お誕生日ありがとう運動」の方から電話がかかつてきた、そういう順番です。その間にあるいはあつたかもしれませんけれども、記憶にないということですね。

(中略)

(問)大体の時間でよろしいんですが園を出られたのは何時ごろだというふうに思いますか。

(答)それが八時一五分であつたと思います。

(問)それはどうして八時一五分だというふうにお思いになるわけですか。

(答)当初から八時一五分というその時間の記憶は鮮明にあつたんです。ただどの場所で八時一五分であつたのかという印象がもうひとつなかつたもんですから大変うろうろしたわけですけれどもNが私の時計を見てやり方と時間を決めたということがあるわけですね。そのときが八時一五分であつたということなんですけれども、そこの記憶がもつと明確であれば当初からそういう証言したんですけれども、かなりいろんな要素があつて、あとでお話しさせていただきますけれども、動かされましてね、できなかつたんですけれども、ただ、六月九日(すぐ後で七日と訂正)と一一日に検察官の方と現場検証しました時に、やはり八時一五分であつたということを鮮やかに思い出したと、そういうことです。

(問)もう一度ちよつと分かりにくいんですが、八時一五分だというふうに思われるのはどうしてですか。今おつしやつたようにNさんが時計を持つていなかつたと……

(答)私に時間を聞いて、八時四五分という時間を約束したわけですね、そのとき私が見ているわけです。

(中略)

(問)あなたの記憶としては、Hさんから電話があつたのは、それは何時ごろになるんですか。

(答)ですから、大阪放送、ラジオ大阪の電話のやりとりがあつて、それから後にHさんの電話があつてすぐに出発したと思つておりますから、八時、そうですね、八時四五分という約束をしているわけでしよう。ですから、八時一五分と思つておりますけれども。

(問)じやあ、Hさんから電話があつたので八時一五分であつたという、記憶ではそうなるとこういうことなんですね。

(答)私の記憶ではそうです。

二  電話の順序(公訴事実第一の一)について

1 争点及び検察官の主張

被告人丙の国賠証言によると、三月一九日夜同被告人が甲山学園管理棟事務室内に在室していた間に、同事務室の電話機を用いてなされた電話の順序は、①F電話、②A電話、③C電話、④G電話、⑤H電話ということになるが、これに対し、検察官は、「①A電話、②C電話、③F電話、④G電話、⑤H電話というのが客観的に真実の順序であつた。」旨主張している。すなわち、丙証言では一連の電話中F電話が一番最初の電話であつたとするのに対して、検察側主張では、F電話はC電話とG電話との間にあつたというのである。

この点について、検察官は、

「関係証拠を検討すると、Nの四九・七・二検面によれば、同人は『大阪放送の報道部に電話をかけていた際、外線のランプがついていた記憶がある。そのランプは甲山学園用のランプであつたと記憶している。それで、私は大阪放送の方からこちらの電話番号を尋ねられ、北山学園の電話番号を答えた。』旨供述しており、このことから見れば、Nが大阪放送に架電した際、誰かが管理棟事務室以外の場所にある学園内の電話機を使用して通話中であつたと窺われる。一方、当夜の青葉寮宿直勤務者であるM、O及び若葉寮の保母・Yの各証言を総合すると、Nが大阪放送へ電話しようとした際、F電話以外には甲山学園用回線番号が使用されていなかつたと認めるのが相当であるから、Nが大阪放送(ラジオ大阪)へ電話したのは、F電話が通話中の時間帯であつたと推認できる。これらの事実に、『NがF電話の取り次ぎを知らせにきたのは午後七時四〇分ごろと思う。F父子の通話時間は五、六分ぐらいと思う。』旨のMの証言とをあわせ考えると、Nがラジオ大阪のGへ電話をかけたのは午後七時四〇分台であつたと言つてよい。他方、右G電話の前にSがA電話、C電話をかけた際には甲山学園用の回線を使用したと窺われるので、右F電話の時刻・通話時間などと勘案すれば、右A電話、C電話はいずれもSらが管理棟事務室に入室してからF電話があるまでの間、、すなわち午後七時三〇分台にかけられたと推認し得ると言うことができる。更に、押収してあるNの手帳(昭和五一年押第一一三号の一六)にも、昭和四九年五月三〇日の弁護団会議の際の話として、『詰まつていたから北山のTELでした。だからラジオ大阪に北山のTELをおしえた。』旨の記載があり、Nの前示検面供述を裏付けていると評価でき、これらを総合すると、F電話はC電話とG電話との間にあつたことが明らかである。」旨主張している。

2 Nの四九・七・二検面の当該部分の要旨とその問題点

Nの四九・七・二検面中の当該部分(以下、「N供述」という。)のあらましは、概略以下のとおりである。

「私が大阪放送の報道部に電話をかけていた際、電話機の外線のランプがついていた記憶がある。そのランプは甲山学園のランプだつたと記憶している。私が大阪放送の方からこちらの電話番号を尋ねられ、北山学園の電話番号を答えたが、これは私が北山学園の電話番号を使つて報道部に電話をかけていたからだと思つている。そういうわけで、私がその通話をする際点灯していた外線は甲山学園の電話番号だつたと思つている。報道部との電話を終えた後、S先生から『今言つた番号は北山学園の番号でしよう。』と言われた記憶がある。しかし、その番号でかかつてきても甲山学園で通話できるので、改めて報道部に(電話番号訂正のための)電話をしたりはしなかつた。」

そこで、N供述をそのまま措信できるか否か、その問題点について検討する。

まず、N供述の問題点として第一に指摘し得るのは、同人が四九・七・二検面で右趣旨の供述をしている以外、他のいかなる場面(前示手帳の記憶は別として)でも、かかる供述をしていないということである。したがつて、G電話時の使用回線についての右N供述は、検察官主張のごとく、「電話をかけた本人しか知り得ない特異な事実」にかかる上、「北山学園用回線使用の理由に関しても具体的に述べられている」ことなどの諸点に徴し、「たまたまNが真実を吐露してしまつたもの」と見ることも可能であるが、逆に、その真実性及び本件全体の証拠構造上の位置付けを吟味する上で慎重を要する「孤立した供述」でもあると言えよう。

次に、N供述の構造を検討すると、大阪放送電話の際甲山学園用回線のランプが点灯していたと記憶しているという供述につづいて、「大阪放送に北山学園の電話番号を教えた。その理由は私が北山学園の電話番号を使つて報道部に電話をかけていたからだと思つている。したがつて、私が大阪放送に電話をする際点灯していた外線は甲山学園の電話番号だつたと思つている。」という供述がなされている。

しかしながら、甲山学園の職員が学園内で電話をかけ、学園外の者に自分の側の電話番号を教える場合には、特段の事情がない限り、たまたま北山学園の回線を使用して外部と通話していたとしても甲山学園用の電話番号を教えるのが通常ではないかと考えられる。そうすると、「北山学園の電話番号を使つて報道部に電話をかけていたから……北山学園の電話番号を教えた。」というN供述の展開をそのまま安易に肯定することはやや軽率ではあるまいか。確かに、北山学園の回線を使用して電話をかけているということが意識の底にあつて、北山学園の番号を教えてしまうということもあり得ると思われるが、通話中右のような意識が終始尾を引いていたとは即断しがたい。

更に、前示N供述の文脈には「……と思つている。」など推測・推理を述べる際に用いられる記述が目立つ点も安易に見過ごせないところである。

次に、昭和四九年五月三〇日の弁護団会議の際の話として、「詰まつていたから北山のTELでした。だからラジオ大阪に北山のTELをおしえた。」旨のNの手帳の記載について検討する。

言うまでもなく、右手帳はN個人の私的な手帳であり、押収してある手帳三冊(押同号の一六ないし一八)には、本件の事実経過と思われるものからN自身の独白に至るものまで種々雑多な事項が雑然と記載されており、その中には、同人自身が「推理を書きとめる」と明記しているように(押同号の一七参照)、本件に関するNの推測ないし推理にわたる内容が書かれていることも十分に考えられることである。したがつて、右手帳中の記載をもつて直ちにN自身の体験事実やその記憶を書き留めたものと即断することは許されない。

そして、右記載の文言自体は、「他の回線が使用されていて、北山学園の回線で電話をかけたから、大阪放送には北山学園の番号を教えた」ということを意味すると解するのが相当であるように読めるが、大阪放送に対して北山学園の電話番号を教示したという事実から、右電話の際北山学園の回線を使用したということを(いわば論理的に)導き出していると解し得る余地も否定できないのであつて、右手帳の記載自体からNの思考過程・記憶喚起の過程を一義的に確定することは困難である。

更に、前示手帳(押同号の一六)を見ると、①右手帳中、五月二五日のことが記載してあると思われる部分の直後の頁の上欄(横線で上下に分けられている。)に「8:00 お花のTEL CさんTEL E ラジオ大阪 ボランティア」との記載があり、これによれば、N自身はG電話の時刻につき、少なくとも午後八時以降であると考えていたと窺われるふしのあること、②右頁の下欄及び別の手帳(押同号の一七)の四月二三日のことが書かれてあると思われる頁には、KとYとの電話が午後八時である旨の記載があり、これによれば、Nは遅くとも四月二三日ごろにはいわゆるK電話が午後八時ごろのものであつた事実を知つていたと推認できること、③Nは三月一九日夜の管理棟事務室内の各電話の時刻について大きな関心を抱き、その関係での情報収集に心を砕いていたと窺われることなどを指摘し得る。ところで、捜査機関において、いわゆるK電話が北山学園の回線を使用してなされた事実を確知したのは、第二次捜査の過程にはいつてからのことであり、昭和四九年五月ないし七月当時、右K電話の使用回線に関する事実はNの知るところではなかつたと窺われること、Nには(その動機・心情のいかんはともかくとして)事実関係を自己の主張に合わせて構成するという主観的傾向が見られることなど諸般の事情に照らすと、Sの無実を訴える一連の活動の中において、「大阪放送には北山学園の電話番号を教示していた」という事実を知つたNが、その理由などを推理する過程で、Nが大阪放送に電話をかけようとした際には、たまたまKが甲山学園の回線を使用してYと通話していたことから同回線が詰まつており、そこで北山学園の回線でG電話をかけたと推理したという蓋然性も一概に否定できない。

これを要するに、前示手帳の記載は、単にNの推理を書きとどめたものに過ぎず、したがつて、右記載をもつて、検察官主張のように前記四九・七・二検面中のN供述を客観的に裏付ける証拠と評価するのには、なお疑問を容れる余地があると言うことができる。

以上のとおりであるから、電話の順序についての検察側主張の根拠とされているNの四九・七・二検面中の供述は、同人の記憶を正確に述べたものというよりは、「時間帯の上で、大阪放送電話はK電話と重なり合つていたのではないか。」というNの推理・推測に基づく供述であるとの疑いが残ることを否定しがたく、してみると、本件電話の順序に関する検察官の主張が客観的な真実に符合すると断定するのは困難である。

なお、かりに本件電話の順序に関する検察官の主張が客観的な真実と符号している場合を想定した上で偽証罪の成否を考察しても、のちに触れるごとく、被告人丙の該当部分についての国賠証言に関しては、主観的虚偽性ないし偽証の犯意を認めることに合理的な疑いを差し挾む余地があることを否定できないので、客観的虚偽性が認められても、その結論を左右するとは考えられない。

三  H電話の時刻(公訴事実第一の二)について

1 被告人丙は、国賠訴訟における証言において、H電話の時刻に関し、「Nが私(被告人丙)とHとの待合わせ時刻を午後八時四五分と決めたが、その際、Nから時間を聞かれて自分の腕時計を見たら八時一五分だつた。」旨供述している。これに対し、Hは当公判廷において、「甲山学園に電話をしたのは午後七時四〇分ごろから同五〇分ごろまでの間だと思う。少なくとも午後八時ごろまでにしていることは間違いない。通話時間は五分間ぐらいであつた。」旨証言しており、右H証言が疑いなく真実を述べているものであれば、被告人丙の前示国賠証言が客観的に虚偽のものであることが明らかとなるので、以下H証言の信用性について検討を加えることとする。

2 H証言の要旨

Hの当公判廷における証言の内容は概略以下のとおりである。

「(甲山学園に電話するに至つた経緯について)

昭和四九年当時、自分は『お誕生日ありがとう運動』という名称の精神薄弱児関係のボランティアをするとともに、しばしば甲山学園に出向いて園児の写真を撮つていた。三月一九日午後五時過ぎごろ現場での仕事を終えて会社に戻つたところ、『Nから電話があつたので、帰つたら学園に電話をかけてほしい。』旨記載された伝言用紙が私のテーブルの上に置かれていた。そこで就業後、神戸国際会館内にある『お誕生日ありがとう運動』事務所に行き、在室していたIらと少し話をした後、午後五時四〇分ないし同五〇分ごろ、甲山学園に電話をした。ところが、電話に出た人の話ではNは園児の捜索用のポスター貼りに行つて不在だということだつたので、自分の居場所を相手に告げて電話を切り、事務所でビラ折り等の作業をしながらNからの電話を待つたが、電話がなかつた。Nからの電話を待つている間数回腕時計を見ている。

(H電話の時刻・内容について)

Nからの電話がなかつたため、こちらの方からもう一度甲山学園に電話をかけた。その時刻は午後七時四〇分ぐらいから同五〇分ぐらいの間だと思う。少なくとも午後七時半以降八時までの間であることは間違いない。そのように思う理由は次の三点である。

すなわち、(A) 「お誕生日ありがとう運動」の事務所で作業中に腕時計で午後七時半であつたのを確認したが、それから一〇分ぐらい経つて電話をかけたという記憶があること、(B) 当時国際会館では午後八時ごろに会館出入り口のシャッターを閉めるため保安員が回つて来ており、自分もそのことに気をつかい、この日も午後八時ごろまでには帰ろうという気持で作業しているので、午後八時ごろまでには電話を入れている。それも、午後八時にせつぱ詰まつた時刻というのではなく、一〇分ぐらい余裕のある時間帯で電話を入れたという記憶があること、(C) 電話で相手と話した際、待合わせの時刻を午後八時四五分と決めたが、そのとき自分の腕時計を見ており、その際まだ一時間ほど時間があるなという感じを持つたことを今でも記憶していること、の三点である。

右電話は、誰か男の人が出てすぐNと替わり、Nから乙子の写真の焼き増しを頼まれ、私の方で乙子の顔と名前が一致しないことから、乙子の写真を丙園長が持つてくることになつた。待合わせ場所については、私の方で神戸新聞会館を指定し、時刻は相手方が午後八時四五分と指定して、電話を切つた。通話時間は五分ぐらいだと思う。

(電話後の状況について)

電話を切つた後は事務所で一〇分ほど作業をし、それからIらと一緒に事務所を出ている。電話を切つてから事務所を出るまで一五分ぐらいはかかつていると思う。そして国際会館西側出入り口のシャッターがしまつていたので会館内の階段を降りて地下街にはいり、途中Iらと別れ、一人で神戸新聞会館の近くまで行つた。この間五分ぐらいだと思う。その後時間潰しのため新聞会館九階のKCCギャラリーに行き待合わせ時刻を気にしながら展示品を見ていた。私は約束の時刻よりも前に待つという性格であり、腕時計の時刻が八時四〇分になつたのでKCCギャラリーを出て同会館正面玄関前に行つた。ギャラリーから正面玄関までは一分少々かかつていると思う。玄関で丙を待つていると二、三分して丙が自動車を運転してやつてきた。丙が遅れてきたという感じを持つたことはない。

以上がH証言の要旨である。

3 H証言の信用性について

(一)  H証言の信用性を肯定する方向に働く諸事情

本件においてH証言の信用性を肯定する方向に働くと思われる諸事情は、次のとおりである。

Hは、甲山学園及び被告人らとの間で格別の利害関係を有する立場になく、常識的に見て、ことさら偽りの証言をする虞があるとは考えられない。また、同人の証言内容は総じて詳細かつ具体的であり、一応は、不自然・不合理な部分が見当たらないと言つてよいであろう。問題の「H電話の時刻」に関する証言内容も、それなりの具体的な根拠を挙げているなど一般的に信用性のある形で述べられている。しかも、Hは甲山学園へ電話をかけるまでの間、時間を気にし、その証言どおりであるとすれば、とくに「午後八時」という時刻を意識し、かかる意識の下で電話をかけたものと窺われ、実際には午後八時以降に電話を入れたのに、午後八時以前の時刻に電話したと勘違いするような特段の事情があつたとも考えにくいところである。更に、「電話で話した際、待合わせ時刻までにまだ一時間ほど時間的な余裕がある、という感じを持つたことを今でも記憶している。」旨強調しているところ、待合わせまでの時間が実際は三〇分程度でしかなかつたのに、その倍にも当たる「一時間ほど」と思い違いするなどということは通常「まずあり得ない」ことと言えよう。その上、Hが「お誕生日ありがとう運動」事務所を出てから、時間潰しのためKCCギャラリーに立ち寄るなどした経過も自然で合理的なものと解される。

以上のとおり、H証言の内容は、それ自体を形式的に観察する限り、いかにも信ぴよう性に富むもののように看取することができると言えよう。

(二)  信用性に疑問をいだかせる方向に働く諸事情

他方、H証言にも幾つかの疑問点が存することを否定できないのであつて、これを要約すると、次のとおりである。

①  Hは、「腕時計で午後七時半を確認してから一〇分ぐらい経つて電話をかけた記憶がある。」旨証言しているところ(前示(A)参照)、これを文字どおりに受け取れば、H電話は当日の午後七時四〇分ごろにあつたと思われるF電話と時間帯が重なつてしまうこととなる。F電話が甲山学園の電話回線を使つてかかつてきた事実は関係者の間にほぼ争いのないところであり、同電話がおおよそ午後七時四〇分ごろであつたということも先ず間違いないと認められるので、この点でH証言には看過しがたい疑問のあることを否定し得ない。

②  Hは、待合わせ時刻を決めた際、「そのとき自分の腕時計を見て……まだ一時間ほど時間があるなという感じを持つた。」旨証言しているが(前示(C)参照)、同人はまた、当公判廷での証言において、「早く来るんだな。」と感じた旨述べている。H自身は、甲山学園から新聞会館までの所要時間を約一時間と考えていたというのであるから、そうだとすると、「まだ一時間ほど時間がある」という「感じ」と「早く来るんだな」という「感じ」との間には、到底見過ごし得ない矛盾があると言わざるを得ない。

③  昭和四九年六月七日と同月一一日の二回にわたつて行われた検察官による走行実験の結果に徴すると、被告人丙が自動車を運転して、甲山学園から神戸新聞会館玄関付近まで赴くのにかかる所要時間は約三三ないし三四分であつたことが認められるところ、被告人丙はH電話の後、比較的短時間の内に自動車で甲山学園を出発したことが明らかであるから、同被告人の出発時刻を(H証言に即して)午後八時前後とすれば、特段の事情がない限り、被告人丙は午後八時四〇分ごろ(場合によつては、それよりもかなり早い時刻に)新聞会館前に着いてしまう可能性があり、してみると、「午後八時四〇分にKCCギャラリーを出て……一分少々かかつて……同会館の玄関に行き、……二、三分して丙がやつて来た。」旨のH証言との間に決定的ともいうべき齟齬を生じることを認めざるを得ない。H電話の時刻をめぐる当事者間の争いのごとく、微妙な時間のずれが争点となつている場合には、H証言中に頻繁に現れる主観的な時間感覚に依拠する供述証拠よりも、前示走行実験の結果のような客観的証拠を重視するのが相当であり、そうだとすれば、この点におけるH証言の客観的事実関係との食い違いは、その信用性を否定する方向に働く重要な事情の一つと言わなければならない。

④  Hは、昭和四九年四月当時捜査官の事情聴取に対し、「(Nの指定した待合わせ時刻までの)待ち時間がどのくらいあるのか時計を見ておれば……詳しく分かるのですが……時計を見ていない。」、「園長先生はずいぶん早く三宮(新聞会館の所在地)へ来るんやなと思つただけでした。」等々、当公判廷における証言の基本的な内容と明らかに食い違う供述をしている事実が認められ、これらの点においても、H証言の問題性をたやすく見過ごせない事情のあることが明白である。

⑤  その他、Hの捜査官に対する供述・公判供述を通じて、同人の供述の変遷状況及び安定性の乏しさを概観すると、

(ア) 被告人丙が自動車で来ることについて、昭和四九年四月当時の供述では「事前に知らなかつた」旨述べていたのに、同五一年二月の供述では「丙が自動車でくるという話が、電話の中で出た。」旨変遷していること、

(イ) H証言では、一方で「午後八時ごろに事務所から帰る」ことがほぼ日常的に固定した習わしであつたかのように供述されているが、「一〇分や一五分ほど(午後八時を)過ぎることもあれば、午後八時半、九時になる場合もあつた。」旨の証言もするなど安定性を欠く面のあること、

(ウ) H証言では「午後八時ごろ保安員が巡回にくることに気をつかつた」ことがかなり強調されているが、こうした供述は昭和五二年段階の捜査官の事情聴取ではじめて現れたものであること、

(エ) Hは当公判廷での証言で、「電話を切つた後一〇分ほど作業をして……事務所を出た」旨述べているが、昭和四九年四月当時の捜査官による事情聴取に対しては、「電話後何分ぐらいしてから(帰宅したか)詳しく覚えていない」旨答えており、当公判廷における証言においても、「一〇分ほど(の)作業」の内容、その当時の事務所内の状況に関しては記憶の喚起をなし得ないとするなど記憶喚起の経過に不統一なところが見られること

等の諸点を指摘することができる。

以上のごとく、H証言には、その信用性に疑いを持たざるを得ない難点が少なくなく、これら信用性を肯定する方向に働く諸事情と否定する方向に働く諸事情とを総合勘案すると、同証言をそのまま安易に措信することは危険であると言わざるを得ない。

してみると、検察官が主張する「客観的な真実」、すなわち、「大阪放送電話の終了直後の午後七時五〇前分ごろ、Hが甲山学園に架電してきたので、Nが通話し、被告人丙が乙子の写真をHに手交するため同人と落ち合うことを約束し、右H電話は午後七時五十数分ごろまでの間に終了した」との客観的事実関係をにわかに肯認することは困難である。

四 被告人丙の国賠証言の主観的虚偽性及び偽証の犯意について

1 検察官の主張

検察官の主張するところは、概略以下のとおりである。

被告人丙が、事件(甲が溺死体で発見されるという出来事)後、三月一九日夜甲山学園を出発した時刻や当夜管理棟事務室にあつた電話の順序等についての記憶を有しなかつたことは明らかであつて、むしろ出発時刻に関しては午後八時ごろという印象ないし記憶をもつていたと推察されるところ、S逮捕後、N指導員が当夜は「午後八時一五分まで丙がSらとともに管理棟事務室にいた」としてSのアリバイを主張しはじめ、職員らの供述を右主張に一致させようとする工作を進める過程において、被告人丙もまたNに同調し、Sの釈放後もSの無実を明らかにすべく「Sさんの自由をとりもどす会」に参加して弁護団会議に出席するなどの活動に関与した上、本件国賠証言に及んだものである。また、H電話の時刻についての記憶喚起の過程につき被告人丙の説明するところは不自然であり、真実は同被告人が走行実験の結果を見て、論理的に、H電話の際に見た時計の時刻が八時一五分になると考え出したのに過ぎない。更に、被告人丙が電話の順序に関して供述する記憶喚起の過程は、国賠証言におけるそれと当公判廷供述におけるそれとで互いに矛盾しており、同被告人が国賠訴訟で「電話の順序」についての自己の証言の信用性を印象づけるため当初から記憶を有していたかのごとく虚偽の証言をしていることも明白である。そもそも、電話の順序について被告人丙が述べる内容は客観的事実関係と食い違つており、被告人丙、同丁及びNの三名が歩調を合わせてそのような供述をしていること自体、右三名らの間で記憶・認識及び意見の統一を図つた事実を窺わせるものであり、この点においても被告人丙の国賠訴訟における証言は不自然と言わざるを得ない。

以上が、検察側主張の概要である。

2 検察官の主張についての検討

(一)  「Nのアリバイ工作への同調」という検察側主張について

被告人丙の当公判廷における供述、第一次捜査段階において丙から事情聴取した上作成されている捜査復命書、O保母・D副園長の各証言等によると、次のような事実を認めることができる。

すなわち、① 事件の翌日(四九年三月二〇日)西宮警察署で事情聴取を受けたのち帰園する途中の車内で、被告人丙が「午後八時ごろであれば、神戸に行つていたため学園にはいなかつた。」旨話していたこと、

② 四九年四月七日Sが逮捕された際、同女に対して「死んでもしやべるな。」と叫んでいたNが、翌八日、「Sについては、(事件当日の)午後八時一五分ごろまでは丙園長・丁指導員・N指導員とともに、また、同三〇分までは丁・Nとともに管理棟事務室にいたので、アリバイがある。」旨記載したビラを学園の職員に配つたりしたこと、

③ 四月八日の甲山学園における会議の席上や、同月九日及び一〇日に、Oが丙の学園出発時刻を問いただした際、被告人丙は「午後八時一五分までSらとともに管理棟事務室にいた。」旨述べていること、

④ 被告人丙自身は、少なくともS逮捕後しばらくの間、学園出発時刻についてはつきりした記憶がなく、午後八時ごろでないかと考えていたこと

以上のような事実が認められ、これによると、Sの第一次逮捕ののちしばらくの間、被告人丙が一見N指導員の主張・態度に同調しているかのごとき言動に出ていた事実は否定しがたいところである。

しかしながら、一方において、

①  四九・四・一四捜復には、S逮捕直後の被告人丙自身の言動やN指導員に関する記述として、「(S逮捕)当時は私も興奮していた。」、「Nは警察からの出頭要求に素直に応じないかも知れないが、これには、四月二日の職員会議でO保母が暴露した事実によつて、Nの学園内での地位が失墜し、決定的なダメージを受けているので、これに対して意地を張つている面も多い。」、「N及びBは、本日組合からの弾劾を受けた。その理由は、Sの救援活動に当たつて行き過ぎがあつたということである。」、「民法協の弁護士は、Nをきらつている。最近は相手にしていない。」という趣旨の記載があること、

②  右捜復及び被告人丙の五三・三・九検面(一)によれば、Sに対する勾留理由開示公判(昭和四九年四月一三日)の前後ごろ、同女の弁護人がNの強引なアリバイ工作を批判し「各人の供述の不一致を無理に合わせることはしない方がよい。」という趣旨のアドバイスをしていると窺われること、

③  四九・四・二三捜復や被告人丙の同日付員面においても、「どの場所で午後八時一五分を確認したのか」という点については、結局これを明らかにしていないこと

などの諸事情を認めることができ、これら諸般の事情に照らせば、被告人丙は、S逮捕直後の一時期、Nに同調したと見られるような態度を示したことがあつたものの、前示のごとく、Nの言動等が弁護士等の非難を浴びるまでに至つたのを契機として、次第に、強引とも受け取られるNのS救援活動の進め方を警戒するとともに、Nとは一定の距離を置き、丙自身の主体性を保つてSの無実を晴らす活動に参与したい旨の決意を固めたものと認めるのが相当であり、同被告人が「Nのアリバイ工作に同調していた。」という検察官の主張は、被告人丙の微妙な心理状態の変化を無視し偏頗な見方をするものとして、これを全面的に肯定することは到底許されないと考える。

(二)  記憶喚起の過程が不自然であるという検察官の主張について

(1)  被告人丙が国賠訴訟及び当公判廷において、同被告人の記憶喚起の過程につき供述するところは、概略以下のとおりである。

「当初から『八時一五分』という時刻の記憶は鮮明であつたが、どの時点で『八時一五分』であつたのかという印象が、もうひとつはつきりしなかつた。四九年六月七日と同月一一日の現場検証の際の走行実験のときに、Hとの待合わせ時刻を決めたのが午後八時一五分であつたことを鮮明に思い出した。事件後早い時間に、学園を出発したのが八時一五分であつたと思い出していたが、IがH電話の時刻は午後八時前と断言していたことや、私自身、甲山学園から神戸新聞会館まで四、五十分かかると思つていたことなどから、自分の気持が非常に揺れ動いた。それが、昭和四九年六月の走行実験で、新聞会館までの所要時間が三十三、四分であつたこと、走行実験に同行した検察官(T刑事部長検事ら)が『出発時刻は丙園長の言うとおり八時一五分である。』という趣旨のことを言つてくれたことなどから、自分の記憶に対する自信を回復した。電話の順序については、昭和四九年四月二三日のJ警部補の取調の際にきちんと話をした。」(以上、国賠訴訟における被告人丙の証言)

「電話の順序は四九年五月五日の退職後にいろいろ考えるうちに思い出してきたもので、それまではつきりしていなかつた。」(以上、当公判廷における被告人丙の供述)

(2)  被告人丙の記憶喚起過程についての検討

検察官において、被告人丙の記憶喚起の過程が不自然だとする根拠・理由は次のとおりである。

① H電話の時刻について、被告人丙は四九年六月の走行実験の際思い出した旨供べているが、既に四月八日には「被告人丙の出発時刻が午後八時一五分であつた」とするパンフレットをNが作成しており、更に被告人丙自身、当初から、H電話の際時計を見た記憶があつた、というのであるから、走行実験時に検察官から出発時刻が午後八時一五分であるかのような指摘を受けたのと同様の条件は走行実験の前から与えられていたのであつて、それにもかかわらず、出発時刻ないしH電話の時刻を思い出すには至つていなかつた以上、前記のような検察官の言があつたからといつて、突然記憶が蘇るというのは不自然である。

② 被告人丙は走行実験の結果による記憶の喚起を強調し、その際記憶が蘇つたことの一つとして、丙在園中に被告人丁が一回管理棟事務室を出て行つた事実を思い出した旨供述するが、既に四月二三日の検察官の事情聴取の際、被告人丁が午後八時ごろ若葉寮にいたことを告げられ、同被告人が管理棟事務室を一回出て行つたという事実に関し記憶喚起の機会を与えられていたにもかかわらず、その機会には記憶を喚起するに至つていないのであるから、走行実験後記憶を取り戻したというのは不自然である。

③ 被告人丙は電話の順序についての記憶喚起の過程に関し、国賠訴訟では、昭和四九年四月二三日のJ警部補の取調の際電話の順序をきちんと説明した旨証言しているが、当公判廷においては、電話の順序は五月五日の退職後思い出し、それまでは、はつきりしなかつた旨供述しており、互いに矛盾している。

以上が、被告人丙の記憶喚起の過程が不自然だと力説する検察官の主張のあらましである。

そこで、以下、検察官の主張の当否について順次考察する。

(a) 検察官は、既に走行実験の以前に記憶喚起のヒントを与えられていたのに、その際思い出せなかつたことを、走行実験の結果思い出したというのは不自然だというのである。

しかしながら、改めて言うまでもなく、人の記憶喚起の過程なるものは、あるヒントが与えられれば必ず一定の記憶を喚起するというような単純で機械的なものではなく、多数の複雑な条件によつて記憶喚起の能否が左右されるのである。すなわち、記憶喚起のきつかけとなるようなヒントが与えられた時点での心理的な状態、既に与えられている情報、本人が抱いている先入観などもろもろの条件のいかんによつて、記憶が喚起される場合もあれば、喚起されない場合もあることは、我々のしばしば経験するところである。

これを本件に即して言えば、午後八時ごろ学園を出発したのではないかと、漠然とした考えを抱いていた被告人丙にとつては、たとえ、走行実験の際と同様のヒントが与えられていたとしても、それと同時に、「学園を出発した時刻は午後八時ごろではなかつたか。」という先入観や、捜査官から与えられた情報、すなわち、「IがH電話は午後八時前と断言している。」旨の情報などがストレートな記憶の喚起を妨げる要因の一つとして作用するのであるから、その時点で学園出発時刻を思い出せず、後日行われた走行実験の結果、右のような記憶の喚起を妨げていた原因が排除され記憶が喚起されるに至つたとしても、これをもつて直ちに不自然と決めつけるのは些か早計に失すると言わなければならない。

(b) 次に、検察官は、Nが丙園長の学園出発時刻は午後八時一五分であつたというパンフレットを配布していた事実をもつて、「記憶喚起の機会が与えられたもの」としているが、右パンフレット配布の点をとらえて記憶喚起のきつかけとなる作用を果たしたとする検察側主張には、にわかに賛同しがたい。けだし、当時の被告人丙はNの主張とは異なり、その内心において「午後八時ごろ学園を出発したのではないか。」という認識を抱きつつも、外見的にはあたかもNの言うところに歩調を合わせるかのごとき態度を示していたものであり、しかも、その後間もなくして、いたずらにNの主張に追従することの愚かさを自覚し、同人の路線との間にしかるべき距離を置く方針を自発的に選択したという経過を窺い得るのであるから、これら諸般の状況を総合考慮すると、Nが前示内容のパンフレットを配布していたからといつて、それが被告人丙に対する関係で記憶喚起のヒントとしていかほどの影響力をもち得たかすこぶる疑問であり、この点についての検察官の主張は説得力を欠くものと言わざるを得ない。

(c) 昭和四九年四月二三日になされた検察官による事情聴取の際、被告人丁が午後八時ごろ若葉寮にいたことを告げられ、これによつて、被告人丙が学園を出発する前に丁が管理棟事務室を出て行つたことを思い出す機会を与えられていた旨の検察官の主張について検討するのに、被告人丁の第一次捜査段階における捜査官に対する供述調書等によれば、当時の捜査官は、被告人丁が若葉寮へ赴いた際Y保母がK電話をかけていた。すなわち、それは午後八時であつたという前提を固守していたと認められ、したがつて、捜査官において、「被告人丁は午後八時ごろ若葉寮にいた。」旨の事実を被告人丙に告げたとしても、捜査官の描いていた事件当時の学園関係者の動向に関するストーリーの下では、それは被告人丙が学園を出発したのちの出来事として理解していた可能性が大きく、そうだとすると、「丙在園中に丁が事務室を出たことがある」という事態の記憶を喚起するヒントたり得たか、甚だ疑わしいと言つてよいであろう。

(d) 検察官は、被告人丙が国賠訴訟の場では電話の順序に関して当初から記憶を有していたかのような証言をしている旨主張しているが、右国賠証言は、その前後の問答の脈絡に徴し、三月一九日の夜管理棟事務室でなされたすべての電話を対象としてその順序を証言しているものではなく、もつぱら一連の大阪放送関係の電話とH電話との前後関係にかかわる証言であることが明白である。そこで、この点についての被告人丙の昭和四九年四月当時の記憶がいかなるものであつたかを検討するのに、検察官指摘の四九・四・二三検面では、H電話に関する供述記載ののちに大阪放送関係の一連の電話についての供述記載があり、その前後関係は必ずしも明らかとは言えない。しかしながら、右供述調書中のH電話に関する供述記載を見ると、「(HとNが通話中)私は帰宅するつもりだつたので、(乙子の)写真は私が持つて行くことを(Nが通話している)最中に決め、NからHに、この電話をした時刻から計算して午後八時四五分ごろになると答えた。私も、Nも、学園から神戸三宮辺りまでの走行時間は大体四、五十分ぐらいということは分かるので、そう無理な時間は約束していない(から)、この点から言うと、私が当日新聞会館に着いた時刻から考え、午後八時過ぎに学園を出発したことになる。」との記載が見られ、これによれば、昭和四九年四月二三日の取調時点で、被告人丙は既に、H電話が最後の電話であるという認識を持つていたと窺われ、更に、四九・四・二八検面には、H電話のあと直ぐに学園を出発したとの記述が存し、この時点で被告人丙が「H電話が最後の電話である」との認識を有していた事実は明白である。また、「昭和四九年三月一九日の当時園長であつた丙の行動」と題する書面において、被告人丙がH電話とG電話との前後関係について明確な供述をしていないことは検察官の主張するとおりであるが、これとても、大阪放送関係の一連の電話との関係で言えば、少なくともH電話が右一連の電話の前だとまでは考えていないことが明らかである上、四九・四・二三員面及び四・二八検面に関しこれまで検討したところに照らせば、右書面の記述は、被告人丙がH電話の時刻の重大性に鑑み、慎重を期して最も確実な部分だけを供述した結果と推測し得る余地があると言えよう。してみると、昭和四九年四月当時H電話が大阪放送関係の電話よりも後であると思つていたし、捜査官にもそのように供述したと思う旨の前示国賠証言については、それが客観的事実に反する証言だと断定する十分な証拠はなく、かえつて昭和四九年四月当時においても、大阪放送関係の電話との前後関係でH電話の方が後だという認識を有していたことが窺われること、昭和五一年一月一六日の国賠証言時において、被告人丙は特段の事情のない限り前示「昭和四九年三月一九日の当時学園長であつた丙の行動」なる書面での供述内容を失念しているものと考えられるところ、国賠訴訟では、とくに右書面に関しての説明を求められておらず、その存在さえも指摘されていないことなどの諸点に徴すると、被告人丙がことさら電話の順序についての記憶喚起の過程につき虚偽の証言をしたと断ずることはできないと言うべきである。

(e) 検察官は、被告人丙が学園出発時刻について午後八時ごろという印象ないし記憶を持つていたと推測されると主張するが、かりに検察官主張のとおりであつたとすれば、国賠証言時には同被告人の記憶内容が変遷していたことになり、単に漠然・あいまいであつた記憶が鮮明に蘇つたという場合と比較してはるかに不自然であることを否定し得ないので、この点について案ずるに、前判示のとおり、同被告人は、少なくともS逮補後しばらくの間学園出発の時刻を、午後八時ごろではないか、と考えていたことが認められるものの、四九・六・二六捜復(その内容は三月二二日に被告人丙からの事情聴取で得たもの)には、「私が学園を出発した時刻は、Hとの待合わせ時刻を午後八時四五分と指定していたことや、私自身時間的なことに正確な性質ではないものの、八時を少し過ぎたころ出発したという記憶があり、しかも一〇分も二〇分も過ぎていたという記憶もないことから考えると、多分、午後八時五分ごろだつたと思う。」旨の記載があり、また、四九・四・二三員面には、「私もNも神戸まで四、五十分ぐらいだということは分かるので、H電話は八時過ぎではないかと思う。」旨の記載があつて、これらによる限り、被告人丙の「学園出発時刻が午後八時ごろである」という認識は、当時の同被告人の記憶と言うよりは、Hとの待合わせに当たつて指定した午後八時四五分という時刻、当時の被告人丙が甲山学園から神戸新聞会館までの所要時間を四、五十分と考えていたことなどの諸事情から推測した上での「認識」に過ぎないと思料する余地があり、学園の出発時刻が午後八時ごろというのが被告人丙の当初の記憶であつたと短絡的に断定するのは相当ではない。

以上検討したところに徴すると、被告人丙の記憶喚起の過程が不自然であるという検察官の主張の根拠はいずれも十分なものではないと言わざるを得ない。

(三)  「認定事実」論について

検察官は、国賠証言当時、被告人丙が学園出発時刻を午後八時一五分ごろと考えていたことについて、これは「記憶」にあらず、昭和四九年六月になされた走行実験の結果を基礎として「論理的に認定したもの」(以下、これを「認定事実」という。)である旨主張する。

もともと、ある自然な過程のもとに喚起された「記憶」であるのか、あるいは、検察官主張のような「認定事実」であるのかという区別は、その両者が複雑に交錯する性格のものであるだけに、極めて困難である。この両者いずれであるかを厳密に区別して認定する作業は、証言者の内心に立ち入つた証拠判断を要求されるので、間接事実に基づく推認でも決して不可能ではないにしても、多くの場合、本人の自白もしくはそれに類する不利益供述に依拠せざるを得ないと言つてよいであろう。本件の場合、電話の順序及びH電話の時刻に関する被告人丙の国賠証言は当人の記憶にしたがつてなされたものではなく、「認定事実」を述べたのに過ぎないとするのが検察官の主張であり、右主張を直接裏付けると窺われる被告人丙の検察官に対する自白調書があるので、以下、その信ぴよう性を検討することとする。

被告人丙の自白内容の主な部分は、以下のとおりである。

「H電話においてHとの待合わせ時刻を決める際、Nに時計を見せたが、このとき、時計の文字盤の針が何時何分を指していたのかという記憶は、国賠証言時においても記憶としては喚起できていなかつた。ただ、三月二六日の警察の走行実験のころから、私が学園から神戸新聞会館に向かう一連の行動の過程においてどこかで八時一五分の時計を見たという気はしていたが、どこで見た時刻なのかは思い出せなかつた。そのような状態が四九年六月の走行実験当時までずつとつづいていたが、走行実験の結果、甲山学園から神戸新聞会館までの所要時間が三三、四分であることが分かるとともに、二回目の走行実験の際には検察官(丁刑事部長検事ら)から学園出発時刻は午後八時一五分ごろであることを認めたかのようなことを言われたこともあつて、私としては検察庁のお墨付きをいただいたという気持で走行実験の結果に強い自信を持ち、新聞会館まで三三、四分かかるのであれば、Hと新聞会館前で会つたのが午後八時五〇分であつたことから、学園出発時刻は午後八時一六、七分であり、H電話の際待合わせ時刻を決めた時刻はそれよりも少し早いはずであるから、どこで見たか分からない八時一五分という時計の時刻はH電話の際見た時刻であつたに違いないと理屈の上で結び付けたものである。もちろん、頭の中で計算上出てくる八時一五分という時刻を時計の文字盤のイメージとして思い浮かべることは容易である。したがつて、私が記憶として喚起したことと右のように頭の中で理屈で割り出した事項とを区別すると、結局、H電話の時刻についての記憶は現在に至るまで喚起されていないということになる。」

以上が、被告人丙の自白内容の骨子である。

しかしながら、右自白のうち「走行実験の結果からH電話の時刻が午後八時一五分であつたのに違いないと考えた。」という点については経験上比較的容易に是認し得るとしても、ここで述べられているように頭の中で考えることと、その後H電話の時刻に関する記憶を喚起することとは決して二律背反的に相容れないものではないばかりでなく、右自白によると被告人丙は論理的に割り出した八時一五分という時刻を時計の文字盤のイメージとして思い浮かべているのであるから、こうした場合に、それが「記憶の喚起」なのか、記憶としては喚起されないけれども論理的に八時一五分という時刻が割り出された結果なんとなくH電話の時刻は午後八時一五分であつたと思いこんだだけなのかという区別は、極めて困難であり、仮に客観的には後者の場合であつたとしても、主観的には前者の場合に当たるかのように意識するということも、通常人の思考方法や心理的傾向としてはむしろ自然なことと言うことができる。したがつて、「結局、H電話の時刻についての記憶は喚起していない。」との部分に関しては、果たして本当に記憶を喚起していないというのか、仮に記憶を喚起していないとしても、国賠証言時における被告人丙の認識としては記憶を喚起していたと思つていたのではないかという疑問には何ら説得力のある解答を提示しておらず、かえつて、通常の一般的な用語法にしたがえば、「記憶を喚起できたと思つていた」と読み替えても差し支えないとの疑いを拭い去ることができないのである。その意味で、本件自白調書は鋭い頭脳と綿密な分析力に自信を持つ検察官の論理のみが徒らに先行し、国賠証言の際の被告人丙の意識の内実を生々しくとらえた自白調書とは縁遠い「作文」の香りが強いものとなつていることを否定しがたい。

本件における自白の対象となつているのは、「認定事実」か「記憶の喚起」かというすぐれて人の内心に属する微妙この上ない事項にかかるものであつて、ことに本件のごとくある種の論理的な推断の過程を経て、厳密な意味での「記憶の喚起」と外形的にはほとんど変わるところのない証言事項が形成されるに至つている場合には、当の本人である被告人丙自身、当該証言がいわゆる「認定事実」の範疇に属するのか、記憶の喚起と言い得る範囲にあるのか、これを截然と論別できなかつたというのが事の実態ではなかつたかと思われるのである。

そこで、本件検察官調書の上では、被告人丙の供述として、「H電話の時刻についての記憶は現在に至るまで喚起されていない。」旨断定的に記載されており、被告人丙がなぜかかる供述記載のある調書の署名押印に応じたのか検討するのに、関係証拠、とくに被告人丙の当公判廷における供述に徴すると、① 同被告人はこれまで逮捕・勾留された経験を全く持ち合わせず、本件による身柄の拘束によつて想像以上に深刻な心身両面にわたる打撃を受けていたと窺われること、② 記憶か「認定事実」かという検察官とのやり取りにおいて、同被告人の言い分がほとんど顧みられないまま押し切られたと感じとつていたこと、③ 検察官からの示唆により、偽証罪の場合自白すれば刑を免除されるなどの恩典に浴し得る事実を知り、それが大きな誘惑となつたこと、④ 国賠訴訟で電話の順序に関しての記憶が当初からあつたかのごとき証言に及んでいる点を厳しく追及され、これが虚偽の証言であると認めた結果、国賠証言時には自己の記憶どおり証言したという同被告人の主張の一部が破綻してしまつたと悲観していたこと、⑤ 被告人丙としてはS保母が無実の身でありながら不当にも逮補・勾留されたと確信していたのにかかわらず、取調担当の検察官から、Sの甲殺害の犯行を証明するのに十分な新証拠として、犯行を目撃した園児の新供述が現れたとの説明を聞かされ、Sの無実についての確信が一時的にではあるが大きく動揺したこと、⑥ 右のような確信の動揺は、被告人丙にとつて他の何事にも勝る衝撃であり、同被告人自身の偽証罪の嫌疑を晴らす気概を殺ぐという点において決定的な事態であつたことなどの諸事情が認められ、これらの事情に照らせば、なかば絶望的な心理状態に追い込まれたすえ、前示のような形で真実喚起された記憶にしたがつてではなく、単なる「認定事実」を証言したに過ぎない旨自供したとする同被告人の弁解にも傾聴すべき説得力があると言うことができ、これを無碍に排斥することは許されない。

以上の次第であるから、被告人丙の学園出発時刻ないしH電話の時刻に関する国賠証言が単なる「認定事実」、すなわち、「頭の中で考えた論理的産物」を証言したものに過ぎないとする検察官の主張、及び、右主張に沿う同被告人の自白調書の信用性を肯定すべきだという検察官の所論は、いずれもこれを採用することが困難である。

(四)  被告人丙の検察官に対する昭和五三年三月一六日付供述調書(電話の順序に関するもの)について

本件では、前示電話の順序に関する被告人丙の国賠証言が「記憶に基づかない虚偽の証言だ」とする同被告人の検面(五三・三・一六付―甲三一二号)があるので、その信ぴよう性について検討を加える。

同調書の該当部の内容は、概略、「私の記憶として、F電話よりA電話の方が遅いという記憶はない。しかし、①F電話は午後七時四〇分ごろだという『捜査官から聞いていた情報』と、②A電話は午後八時ちよつと前だという昭和四九年五月三〇日の『弁護団会議で得た情報』、及び、③F電話の前にN・S・丁と一緒にお茶を飲んだり物を食べたりしていた印象とが一体となつて、F電話よりA電話の方が後ということでいいのだろうと自分で思い込んでいたわけで、この点については国賠訴訟で私自身電話の順序を記憶として思い出した上で証言したように述べたが、私の記憶と他から得た情報とを厳密に区別するならば、A電話など関連する三本の電話がF電話の前なのか後なのか、これを順序づけるだけの記憶は今日に至るまではつきりしない。」というのである。

ところで、右調書中の「一体となつて」なる文言の意味は必ずしも明らかではない。しかし、仮に前示の各情報がなかつたとしても、「F電話の前に食事をしていたという印象」だけからでもF電話が一番最初の電話であつたと判断できないわけではないから、被告人丙は本件国賠証言時において、右各情報は情報として区別した上、「F電話の前に食事をしていたという印象」に基づいて、F電話が一番最初の電話であつたと考えていたと推認し得る可能性もにわかに否定しがたいと言うことができる。

更に、この点について、被告人丙の国賠訴訟における証言内容及び当公判廷での供述を見ると、① 事件後間もないころの同被告人は、三月一九日夜管理棟事務室で体験した幾つかの出来事を順序立てて思い出せるような状態にはなく、個々の出来事が互いに脈絡のないまま脳裏に浮かぶという程度の記憶しか持ち合わせていなかつたと窺われ、しかも、その翌日ごろからは数名の警察官が同事務室に滞留し、同被告人に対して広範囲にわたる事項を質問してくるという状況で、同被告人も心理的にかなり混乱した状態にあつたこと、② その後捜査官から与えられたヒント(情報)などを頼りに当夜の状況についての記憶を呼び起こし、ある程度秩序だつた記憶の喚起をなし得たものの、電話の順序に関する問題は依然としてあいまいな形でしか記憶が蘇ることなく経過していたこと、③ そのうち、三月一九日の夜は、午後七時半ごろビラ配りなどの乙子捜索活動を終えたN、S及び被告人丁が多忙な一日を終えて帰園し、同事務室にはいつてきてしばらくはSが買い求めてきたパンなどを皆で食べて空腹感を癒やすかたわら、その日の作業の状況等を互いに話し合うなどしていた経緯を思い起こし、全員でパンやみかんなどを食べ終わりホッと一息ついたころF電話がはいつてきた事実を思い出したこと、④ こうした経過の中でラジオなどマスメディアを利用して乙子の捜索に一般市民の協力を得られないものかといつた話題が出、Sが生花の先生や「ラジオ大阪の偉い人」の話を持ち出した事実を思い起こすに至つたこと、⑤ 右のような記憶の喚起にはかなりの期間を要し、丙が退職したのちゆつくりと落ち着いて考えてゆくうちに、やつと筋道の立つた形態で記憶の喚起を遂げ得たことなどの事情が認められる。

このような経過で、被告人丙は、三月一九日夜管理棟事務室にいた際、まずF電話があり、つづいて大阪放送関係の一連の電話があつた旨の記憶を喚起・形成したものと認め得る余地があるところ、右に述べたような記憶喚起の過程には特段不自然なところがなく、むしろ、通常人がある程度の時間や日数をかけて過去の体験事実に関する記憶を秩序立つた形で蘇らせる場合の一般的なプロセスに通ずるものと評価できる。

してみると、前後の周辺的状況から出てきた被告人丙の判断を同被告人の直接的な記憶として証言しているとの検察官の非難は、直ちに妥当するものとは言えず、右検面の存在を考慮に容れても、被告人丙の国賠訴訟における電話の順序についての証言が証言当時の記憶に反する虚偽の証言と断定するのは早計に過ぎると言わなければならない。

(五)  検察官は、電話の順序及びH電話の時刻に関する被告人丙の国賠証言は客観的な真実に反しているのに、同被告人、N及び被告人丁の三名が歩調を合わせてそのような事実に反する供述・証言をしている点をとらえて、被告人丙の国賠証言ないし記憶喚起の過程には不自然・不合理なところがあるとも主張しているが、既に判示したように、検察官が客観的真実だと主張している事実自体これを一義的に確定し得る証拠がないのであるから、右検察官の主張は、その前提において採用しがたいと言うべきである。

第五被告人丁に対する公訴事実についての検討及び判断

一  被告人丁の国賠証言の客観的虚偽性について

1 被告人丁の国賠訴訟における証言内容の要旨

被告人丁は、前示国賠訴訟の第一五回口頭弁論期日(昭和五一年一〇月一五日)の証人尋問において原告ら訴訟代理人の尋問に対して証言しているが、その証言中、同被告人に対する公訴事実に関連する主要な部分の要旨は次のとおりである。

A 昭和四九年三月一九日午後七時三〇分ごろ、私はS・Nとともに管理棟事務室にはいり、そこにいた丙と一緒になつた。その後、丙が同事務室を出て行くまでの間、同事務室を人が出入りしたのは、Nが園児の父(F)からの電話を取り次ぐために青葉寮に行つてすぐ戻つて来たのと、私が一度若葉寮職員室に稲荷ずしとバナナのはいつた紙袋を取りに行つたことがあるだけである。私が同職員室に行つたところ、そこには保母のYがいて、外出中のKと同職員室の電話器で通話していた。私は、自分の荷物を持つて、すぐに管理棟事務室に戻つたが、その際、YからKがその日学園に帰つてくるべきかどうか尋ねたので、その必要はないのではないかと答えた。Hからの電話があつた時刻については、NがHと通話している中で、午後八時四五分に新聞会館ということを約束していたことから、みんなで不安に思い、ちようどそのとき丙も腕時計をのぞいていたので、みんなでのぞき込んだところ、八時一五分だつた。Hからの電話終了後、丙はすぐに管理棟事務室を出た。

B 丙が午後八時一五分ごろ管理棟事務室を出て行つたのち、N・S及び私の三名は乙子の捜索表を作るためワラ半紙を貼り合わせることとしたが、同事務室に糊がなかつたので、私がこれを取りに若葉寮職員室に行つたところ、同職員室にはYがおり、私に「手伝いましようか。」と声をかけたので、「いいえ、結構です。」と答えた。私は糊を見付けた後すぐに管理棟事務室に戻り、同所でワラ半紙を貼り合わせる作業にとりかかつたが、三枚一組の二組目の三枚目を貼つている最中に、玄関の入口付近(事務室の入口付近)で、女の人の声で、甲がいなくなつたということを聞き、同児の行方不明を知つた。その女の人の姿は見ていないが、多分Sだと思う。なお、その直前に事務室の外で、女の人二人の大きな話声を聞いたが、内容ははつきり聞き取れなかつた。

2 判断の対象等

被告人丁に対する公訴事実で虚偽の証言として問題にされているのは、① 真実は、三月一九日の午後七時五〇分ごろから午後八時二〇分ごろまで終始若葉寮職員室にいたのに、「七時三〇分ごろから八時一五分ごろまで管理棟事務室にいた。H電話のときに丙の時計をのぞきこんだら八時一五分であつた。丙在園中一度だけ若葉寮職員室に行つた。」旨証言したこと、② 真実は、若葉寮職員室にいた際、O保母から聞いて甲所在不明の事実を知つたのに、「管理棟事務室にいた際、多分Sだと思う女の人の声で、甲がいなくなつたと聞き、同児の行方不明を知つた。」旨証言したことの二点である。

右公訴事実の構成に照らすと、①の関係で当裁判所が客観的真実であるかどうかを認定・判断すべき事実の範囲は、「午後七時五〇分ごろから午後八時二〇分ごろまでの間、被告人丁は若葉寮職員室にいたのか、管理棟事務室にいたのか」ということに尽きると言えよう。観念的・論理的には、右時間帯に同被告人が管理棟事務室にいた場合でも、「丙の時計をのぞきこんだら午後八時一五分であつた。」ないし「丙在園中一度だけ若葉寮職員室に行つた。」という証言部分が客観的な真実に反している可能性もあるわけであるが、当面の公訴事実が「真実」として摘示しているのは、被告人丁が、一貫して右時間帯に若葉寮職員室にいたということだけである以上、仮に前記時間帯に被告人丁が管理棟事務室にいたという前提を立てた上で、かかる仮定の前提事実の下で右丁証言の具体的内容とあい反する客観的な真実如何を認定しようとする場合には、検察官において訴因変更の手続をとつた上、この点について検察官がいかなる「真実」を主張するのかを明らかにさせる必要があると解するのが相当である(なお、本件審理の経過及び事案の性質ないし証拠調の結果等諸般の事情に徴すると、検察官が訴因変更の手続を求めないのに、裁判所がこれを命じる義務を負う場合には当たらないと解すべきである。)。もつとも、被告人丁の(管理棟事務室内での出来事として述べている)具体的な証言内容が「全くあり得ない事実」を供述しているとすれば、そのことから、前記時間帯に被告人丁が管理棟事務室にいなかつたことを間接的に推認することができるであろう。したがつて、その限りにおいては、前示のような被告人丁の具体的証言内容も証拠判断の対象となるのであるが、その場合でも、最終的に認定すべき事実は、検察官指摘の時間帯に同被告人がどこにいたのかということでなければならない。一方、③の関係で言えば、被告人丁がどこで誰から聞いて、甲行方不明の事実を知つたのかという点が証拠判断の対象となることは言うまでもない。

3 Y証言についての検討

本件の証拠構造の上で、被告人丁の本件国賠証言の客観的虚偽性に関する検察官の主張を裏付ける直接証拠は、Yの公判証言である。そこで、Y証言の要旨を摘示し、つづいて、その信用性を検討することとする。

(一)  Y証言の要旨

証人Yは、大要、「四九年三月一九日は、同僚のKから午後五時、同八時及び同一〇時に乙子捜索状況の進展ぶりなどを問い合わせる電話がかかつてくることになつていた。それで、学習棟二階の自室の時計で午後七時五〇分を確認したのち、若葉寮職員室に行つた。学習棟から若葉寮職員室までの所要時間は一、二分ぐらいだと思う。職員室に入ると、丁が一人で同女の机のところにいて、忙しそうに立つたり座つたりしていた。私は担当園児の行動記録をつけようと考え、ロッカーから記録を出し机に置いたが、その際、丁に『お手伝いしましようか。』と声をかけた。丁は私の申出を断わつたので、自分の机に座り行動記録をつけ始めた。その後、丁は私の机から一つおいた右隣の席につき、断定はできないが、行動記録をつけ始めたと思う。職員室の柱時計で午後八時きつかりにKから電話があつた。Kに、とくに変わつたことはない旨話し、午後一〇時の電話は要らないと思つたが、一人で決めるのは不安だつたので、丁に相談して意見を聞いた上、Kにその旨を伝えて電話を切つた。丁は、K電話の際も先程と同じ席に座つていた。K電話ののち、私は自分の机で行動記録の続きを書いた。K電話の後一五分か二〇分位したころ、Nが職員室に入つてきた。Nは丁の座つている机の向かい側に立ち、何か丁と話し始めた。しばらくして、Oがやつてきた。Oは職員室の窓を開け、『甲、来てない。』といつた。私は甲が若葉寮に入つているかもしれないと思い、若葉寮の保母に甲が来ていないかどうかを聞こうと職員室を出た。Nや丁も一緒に職員室を出たと思うが、この点ははつきりしない。私が職員室に入つてからOがくるまで丁はずつと職員室にいた。行動記録をつける際私は下を向いていて、しよつちゆう丁の方を見ていたわけではないが、職員室は狭いので人が出入りしたら分かる。」旨証言している。

(二)  Y供述の変遷状況等

Yは四九年一二月に甲山学園を退職して、その後は結婚しているもので、被告人らとは何ら特別の利害関係を有するものではなく、前示証言の内容も、それ自体を見る限り概ね詳細かつ具体的で、とくに不自然・不合理と思われる部分も見当たらず、一見したところ信ぴよう性の高い供述証拠としての一般的な特徴を備えているように看取できる。

しかしながら、Y証人は、事件後間もない段階での初期供述では前示証言と異なる部分の少なくない事実を述べていたものであつて、O証人の供述の変遷状況にはたやすく看過することの許されない点が存在する。以下、この点について検討を加える。

すなわち、四九・四・一五員面におけるY供述は、「若葉寮職員室に行き、何気なく時刻を確かめると、午後七時五〇分ごろであつた。Kとの約束の時間まで少し間があつたので、私は子供のカルテを整理しておこうと思い、棚からカルテを出した。職員室に入つたときには外に誰もいなかつたように思う。午後八時きつかりにKから電話が入つた。私は乙子の捜索状況に変化がなさそうだし、また宿舎から若葉寮にくるのが面倒だつたので、午後一〇時の電話は不要ではないかと思い、一瞬ためらい、受話器を持つたまま何気なく職員室の中の方に顔を向けると、丁の姿があつた。そこで、『K先生が一〇時にまた電話で様子を聞くからとおつしやるのですが、もういいですね。』と相談するともなく声をかけたら、丁は『もういいんじやないの。』と答えた。私が電話しているときも、電話が終わつてからも、丁は何か忙しそうにカルテ棚と自分の机の辺りを行つたり来たりしていた。丁は医療の係をしていたので、医療品を捜しているのかと思い、『何か手伝いましようか。』と声をかけると、『いいわ。』といつたので、私は机に戻つてカルテを書き始めた。電話後カルテを書き始めるまでの時間は五分もかかつていないと思う。カルテの記入を始めてから少し時間が経つたころで多分午後八時一五分か二〇分ごろ、はつきりした場所は分からないが、たしか若葉寮入口辺りで、『甲きていない。』という女の先生の声が聞こえた。このときには、まだ丁もいた。間もなくNが職員室にきて、『甲きていないか。』といい、甲を捜している様子だつたので、私も寮の中を捜してみようと思い職員室を出た。このとき丁とNは何か話をしていた。」というのである。

更に、同日付検面では、大要、「職員室に行き、まだ八時まで数分あつたので、私はカルテを整理しようと思い、棚からカルテを出して自分の机のところで書き始めたとき、ちようど八時にKから電話が入つた。Kが一〇時にまた電話するというので、どうしようかなと思つて、ふと職員室の奥の方に目を移すと丁が自分の席でカルテを整理しているのを見た。私が職員室にきたときには誰もいなかつたと思つていたが、あるいは私の見誤りで、既に丁はいたのかもしれない。とにかく私がKと電話中、丁がいるのをはつきりと見た。午後八時一五分か午後八時二〇分であつたと思うが、職員室の入口付近の方から姿は見えなかつたが女の声で『甲きていない。』という大きな声がした。私はOの声と思つていたが、後でOに聞いたところ、Oはそのころ青葉寮にいて若葉寮の方にはきていないとのことだつた。そのすぐ後だつたと思うが、Nが確か『甲きていないか。』といつて職員室に入つてきた。職員室の入つたところで、Nが奥の方にいた丁と何か話をしていた。Nは甲を捜しているようだつた。私はそのとき始めて甲がいなくなつたのを知つたので、職員室を出て若葉寮の各部屋を廻つて甲を捜した。」と供述している。

右のYの証言と捜査段階の供述とを比較検討すると、Yが若葉寮職員室に来た際、既に被告人丁が同職員室にいたのかどうか、及び、最初に甲行方不明の事実を知らせにきたのが誰であつたのか、Nはどの時点で若葉寮にきたのか(NとOが若葉寮に来た前後関係)等々基本的で重要な部分において見逃すことのできない供述の変遷を示していることが明白である。

関係証拠に徴すると、Yは、昭和五一年一〇月六日神戸検察審査会で証人として尋問を受けた際はじめて当公判廷での証言とほぼ同趣旨の供述を行うに至つたものと認められるが、一般的に人の記憶は日時の経過とともに曖昧・不正確の度合いを強めるのが通常であり、したがつて、供述の変遷が見られる場合には、過去の供述時にことさら自己の記憶に反して供述したような特殊な事情があるとか、合理的な理由や事情があつて正しい記憶を喚起したと認められるなど特段の事情が存する場合はともかく、普通は体験時から日時が経過するほど後の供述の信ぴよう性が減殺されることを免れないと言うべきである。

そこで、項を改めて、Y供述の変遷経過に相応の合理的な理由・事情が認められるか否か、検討を加えることとする。

(三)  「Yが若葉寮職員室にきた際、被告人丁が既に同職員室にいたのかどうか」という点について

この点に関する供述変遷の理由について、Yは、「若葉寮職員室に入つた際丁が在室していたことについては、事件直後から記憶としてあつた。警察官に対しても、その記憶どおり供述したが、警察官から『丁はいなかつたといつているが、本当はいなかつたのではないか。』と念を押され、丁の供述と食い違うのも困るので供述をぼかした。」旨当公判廷で説明し、検察官も、被告人丁が捜査官に対し、「用事は思い出せないが、若葉寮へ行くとYがいた。」あるいは「若葉寮に糊を取りに行くとYがいた。」旨供述していること(四九・三・二五付、四九・三・二九付の各捜復参照)などから、捜査官としては、先にYが職員室に来ているところへ、被告人丁が姿を見せたものと考えていた筈であり、したがつて、Yに対する事情聴取を担当した警察官において、Yが職員室へ行つた際にはまだ被告人丁がいなかつたのではないかとの疑問を投げかけたとしても不思議ではなく、供述変遷の理由に関するYの説明には合理性がある、と主張する。

しかしながら、Yの四九・四・一五員面には、Yや検察官のいうような捜査官の問いかけを窺わせる記載がなく、かえつて、同日付検面の前示記載を素直に読めば、Yが「丁はいなかつた。」と述べているのに対し、検察官において、「丁がいたのではないか。」という趣旨の質問を出していることが窺われ、供述変遷の過程についてのY証人の説明やこれと符節を合わせる検察官の主張は必ずしも説得力に富むとは言いがたい。しかも、昭和四九年四月当時捜査官においては、Yが職員室に入つた時点で丁が既に在室していたという見解に立つて質問し、これに対して(もし、被告人丁がYより遅れて職員室に来たのであれば、同被告人が入室してきた際の状況を説明し得る筈のYが満足な説明をなし得ないために)、捜査官の質問に迎合する形で「丁が既にいたのかもしれない。」旨述べることも十分にあり得ると言つてよい。更には、「若葉寮職員室に行つたら、Yがいた。」という被告人丁の供述の正確性をテストする目的で、捜査官がYに対し同女が職員室へ行つた際には既に被告人丁がいたのではないかという確認的な質問をすることも考えられないわけではない。そうだとすると、前記供述調書作成時における捜査官とYとのやりとりに関しては、検察官の主張とは逆の想定も可能であり、このような推測に基づいて供述の変遷理由を論ずるのは相当でない。

しかも、供述の変遷理由についてのYの説明を、別の視点から考察してみると、同女には、捜査官の与えた情報に対して比較的安易に迎合する傾向のあることを窺わせるひとつの資料と評価することもできよう。

また、検察官は、Yの供述の変遷が検察審査会という場面での証言を契機としている点に関して、「捜査官による誘導があり得ない状況」の下での証言である旨強調しているが、本件甲山学園園児変死事件が検察審査会で取り上げられるに至つた経緯、検察審査会での証人尋問手続が現実にどこまで「適正手続」の理念に沿つて運用されているのか疑問なしとしないこと、時期的な流れから見て、Y自身においても被告人丁が若葉寮職員室に姿を見せた時刻や在室の状況等がSのアリバイ問題との関係でいかなる意味を持つかそれなりの知識を有していたと窺われることなどの諸事情に照らせば、右のごとき供述の変遷経過はY証言の信用性に疑問を抱かせる方向に働く事情の一つと考えられる。

(四)  O及びNが若葉寮職員室にきた時期の前後関係について

この点について、Yは前示(二)のごとき供述の変遷を生じた理由として、「事情聴取を受けた警察官に、『Oが若葉寮に来た後でNが来たのではないか。』と質問された際、ぼかした答え方をしたものである。」旨供述している。そして、検察官は、Yにおいて、「Oが若葉寮に甲の所在を聞きに来た」という事柄についてぼかした表現の供述をすれば、事情聴取に当たつた警察官において、甲がいないかどうか若葉寮にやつてきて聞いた者がいるのかどうか、いるとすれば誰なのかを聞き糺す筈であつて、その場合、そのころNも若葉寮職員室に来ていたという記憶のあつたYが、甲の件を知らせにきたのはNであつたと述べてしまつたとしても不自然とは言いがたく、更に右のような供述をした以上は、Y自身Nの通報に基づいて甲を捜しに出たことにしないと辻褄が合わなくなるので、Nがはいつてきたのは女の声の後である、との供述が生まれてくるのも当然であり、Yの供述の変遷には相応の合理的理由が存する、と主張する。

しかしながら、「Oが若葉寮に来た後でNが来たのではないか。」と警察官から質問されたというY証言には、これを裏付けるに足る証拠が見当らず、かえつて、Yの四九・四・一五員面での供述記載では、Oが来た後でNが来た旨明確な供述をしたことになつており、かつ、同調書に添付されている図面には、「N先生が来られた時は、甲君がいないかという声を聞いた前か後か覚えていません」旨の記載があることに徴すれば、右Y証言は直ちに信用し得ない。更に、当時捜査官の側では、被告人丙の学園出発時刻を午後八時ごろと見ていたと窺われるところ、「Oが若葉寮に来た時刻は八時一五分ないし二〇分である。」とのY供述を前提とする限り、「Oが若葉寮に来た後でNが来た」というYの供述は、内容的に、被告人丙の学園出発時刻が八時一五分過ぎであるとの当時におけるNらの主張に沿うものとなつて捜査官に不都合であるから、Y供述とは逆に、警察官においては、「Oの前にNが来ているのではないか。」と問いただしたのではないかとすら推測できるのであつて、この点から言つても、警察官から「Oの後でNが来たのではないか。」と質問されたというY証言は措信しがたい。

更に、検察官の主張に関して検討するのに、検察官は、Yにおいて、「甲所在不明の事実を知らせに来たのはOである」ことをぼかした結果、右事実を知らせに来たのはNだという供述を生み出すに至つたと推測し得る旨主張しているが、Yは「甲来ていない。」という「女の先生」の声を聞いたと明言し、ただその声の主が誰であるかをぼかしているのに過ぎないから、少なくともYがいかなる経緯で甲所在不明の件を知るに至つたかという点自体は明らかになつており、そうすると、警察官が検察官の主張するような追及をしたか否か疑問である。

また、Yは、Oに確認したところ、同女から若葉寮へ行つた記憶がないと言われたので、同女の供述との齟齬を回避するためぼかした供述をした旨述べているところ、「Nが甲所在不明の事実を知らせに来た」という(Y自身の記憶にない)事実を警察官に供述すれば、今度はNとの間で供述の齟齬を来たすと予想できるのであるから、この点についてOの供述との整合性に気遣つたYがNとの関係では同人との間で生じかねない供述の食い違いを何ら意に介しなかつたこととなり、Yの供述態度が甚だ一貫性を欠いている事実をいかに説明し得るのか、理解に苦しむと言えよう。してみると、「Nが甲の所在不明を知らせに来た」という記憶があつたからこそ、Yがかかる供述をしたと考える方がはるかに自然であり、検察官の主張は採用できない。

(五)  以上の次第であるから、Y証言のうち、(a)Yが若葉寮にきた際、被告人丁が既に同寮職員室におり、O被告人に「手伝いましようか。」と声をかけた、という部分、及び、(b)Oが若葉寮職員室に来る前にNが同職員室に来たとする部分とは、いずれも供述内容の変遷が著しく、しかもその変遷理由につき合理的な説明が困難であるから、その証明力・証拠価値には疑問があると言わざるを得ない。

4 昭和四九年三月一九日午後七時五〇分ごろから午後八時二〇分ごろまで被告人丁は若葉寮職員室にいたのか否か、という点について

(一)  Y証言についての検討

Y証言は、本件証拠構造の上で、被告人丁が公訴事実第二の一記載の時間帯の間、終始若葉寮職員室にいたという検察官主張の事実を直接裏付ける証拠であるから、以下その信ぴよう性について検討する。

Y証言において、被告人丁が右時間帯に終始若葉寮職員室に在室したことの根拠とされているところは、① 午後七時五〇分ごろYが同職員室に赴いた際、既に被告人丁が同職員室にいたこと、② 午後八時のK電話の際、被告人丁が同職員室にいたこと、③ 午後八時二〇分ごろOが甲の所在を聞きに同職員室に顔を出した際、被告人丁及びNの両名が同職員室にいたこと、④ Yが同職員室にはいつてからOが顔を出すまでの間、同被告人が同職員室の外に出ていないこと、の四点である。

しかしながら、右の①の点に関するY証言に看過できない疑問点のあることは、既に判示したとおりである。

更に、当日のYは、Kからの電話を受けて乙子の捜索状況を報告することを約束していたものであるところ、当時若葉寮関係の職員で乙子の捜索について積極的に参与し精力的な活動をしていたのは被告人丁一人であつたと言つてもよい状況であつた上、この日、同被告人が現に捜索活動にたずさわつた事実をYも承知していたと思われるのであるから、Yが証言しているように約三〇分間二人だけが同じ部屋に居合わせるという事実が実際にあつたとすれば、Yにおいて被告人丁に対し乙子捜索活動の進展状況等を尋ねるとか、二人の間で乙子の捜索に関連した話題が何らかの形で出るのが当然ではなかつたかと考えられるのにかかわらず、Y証言によると、それに見合う会話が全くなかつたというのであつて、この点においても、Yの証言の不自然さは到底見逃せないものと言わざるを得ない。

一方、Yは同職員室の広さなどの事情から見て、人の出入りがあれば必ず気付く筈であつた旨強調しているが、Yの四九・四・一五員面・検面によれば、同女が若葉寮職員室内で被告人丁の姿に初めて気付いたのはKとの電話の際であつたとの供述記載があること(これは、Yが気付かない間に被告人丁が同職員室にはいつてきた事実を前提としなければ理解しがたい。)などに徴すると、右Yの証言程度の証拠だけで同女の知らない間に被告人丁が同職員室を出入りした可能性を全面的に排除し得る根拠とするのは、何としても早計に過ぎるのではあるまいか。

したがつて、検察官主張のごとく、Y証言をもつて、被告人丁が前記時間帯の間終始同職員室にいたという事実を裏付ける証拠とするのには、同証言の随所に見過ごすことの許されない難点が存在することを否定できない。

(二)  被告人丁の国賠証言についての検討

被告人丁の国賠証言は、四九年三月一九日の前示時間帯の間(その終期を午後八時二〇分ごろと断定できるか否かは問題だとしても)、同被告人が管理棟事務室内にいたことを当然の前提とするものである。

そこで、もし被告人丁が同証言において、本件当夜管理棟事務室内で体験した事実として述べている内容が、他の証拠関係や経験則に照らし、到底現実に体験し得べくもないと思われるようなものであれば、結果的に同被告人が管理棟事務室にいたという前提事実を疑わせることとなるので、この点について考察してみるのに、検察官は、被告人丁が被告人丙の腕時計で時刻を確認するに至つた経緯など幾つかの点を指摘して、丁証言の不自然さを論じているが、検察官の主張する問題点はいずれもたかだか記憶違い・見解の相違といつたレベルの域を出ず、丁証言の前提事実自体に疑いを抱かせるほどの不自然・不合理なものとは言えない。

逆に、前記時間帯には管理棟事務室にいたという被告人丁の供述は、四九・三・二〇捜復の段階(事件の翌日)から一貫しており、当時の時点で被告人丁がことさらこの点について虚偽の事実を捜査官に申述しなければならない事情も全くなかつた以上、右時間帯に管理棟事務室に在室していた旨の丁証言の信用性は高いと言うことができる。また、被告人丁の四九・三・二五捜復には、被告人丙の在園中被告人丁が一回若葉寮職員室に出向いた旨の記述があることに照らすと、「二回若葉寮に行つたことは当初から覚えていたが、一回目の用件を思い出せなかつたので、自信がなくなり言わなくなつた。」旨の丁証言についても、これを虚偽の言辞と決め付けることはできない。

してみると、被告人丁の本件国賠証言のうち、少なくとも同被告人が前記時間帯に管理棟事務室にいたという部分についての信用性は、これを肯定し得ると言うべきである。

(三)  以上のとおりであるから、被告人丁が午後七時五〇分ごろから午後八時二〇分ごろまでの間若葉寮職員室にいたとする検察官の主張(公訴事実第二の一)については、これを裏付けるべきY証言が決め手とはならず、かえつて右時間帯には管理棟事務室にいた旨の丁証言の信ぴよう性を疑わせるような事情は存しないのであるから、結局、公訴事実第二の一の前提事実(すなわち、検察官が客観的真実だと主張している事実)を肯認するに足りる証拠はないと言わざるを得ない。

5 Oが甲を捜すため若葉寮職員室にきた際、同職員室に被告人丁がいたか否か、ということについて

(一)  Yの四九・四・一五員面、同日付検面によれば、Oが若葉寮職員室にきたこと、その際被告人丁も同職員室にいたということについては、Yにおいて、当初から一貫した記憶を有していたと窺われ、特段の事情がない限り、その信用性を認めるのが相当である。しかし、Y証言は、「Oが若葉寮職員室にきたときにはNも同室におり、Nと被告人丁とが話をしていた。」というものであるところ、前示のとおり、NのあとでOがきたと述べるY証言が必ずしも信用しがたい以上、Oが若葉寮職員室にきた際Nはその場にいなかつたという可能性を否定できず、してみると、少なくともOがきた時点でNもいたという点に関する限り、Y証言には問題があり、更に同証言の趣旨に鑑みると、「Oがきたとき被告人丁がいた」という記憶と「被告人丁とNとが話をしていた」という記憶とが一体をなしていると見られるので、後者の点で疑問がある以上、前者のみを措信してこれを真実であると断定するのには躊躇の念を禁じ得ない。

また、Y証言に徴すれば、同女は、Oが若葉寮に甲の所在を知らないかと尋ねにきたことで、甲行方不明の事実を知り、甲を捜しに出たというのであるが、乙子に続いて又々甲の姿が見えないという出来事が起こつたのであるから、同室者がおればその者との間で何らかの言葉のやりとりがあつて当然で思われるのに、Y証言ではかかるやりとりの記憶がないというのであり、その上、Oがきた際の被告人丁及びNの状況等についてもこれといつた記憶がないと述べるなど、供述の迫真性を推し量る際に重視される臨場感を欠き、ひいては、その信用性を肯定するについて軽視しがたい疑問が残ることを否定できない。

そうすると、Oが若葉寮にきた際、被告人丁もいたというY証言は、前示のように(その部分に限つて言えば)一貫性のある供述であることを考慮してもなお、その信ぴよう性に疑いを抱かざるを得ないと言うべきである。

(二)  O証言についての検討

Oは、当公判廷において、「若葉寮へ甲の所在を聞きに行つた際、職員室の中をのぞくと、被告人丁とYがおり、被告人丁に向かい合う形でNもいた。」旨証言している。

そこで、O証言について検討するのに、同女は当初若葉寮へ行つたこと自体を否定していたもので、事件後一年余を経過した五〇年五月の実況見分の際事件当日の行動を再現するうちはじめて若葉寮に出向いたことの記憶が蘇つたというのであつて、その信用性に若干の疑いが残るが、Y証言によれば同女は当初から一貫してOが若葉寮にきたという記憶を保持していたと窺われ、してみると、事件当夜Oが甲の所在確認のため若葉寮に赴いた事実自体は否定できないと思われる。

しかし、Oが若葉寮に出かけた際職員室内をのぞき込んで被告人丁を現認したという点に関しては、① Yにおいて、当初、事件当夜若葉寮にきた女性がOであることを明言しておらず、その理由として、Yは後日Oに確かめると同女が若葉寮へ行つたことがない旨答えていたので、同女の供述との齟齬を避けるため、「Oがきたことをぼかしていた。」というのであるが、真実Oが職員室内をのぞき込むなどした際、YがOの顔をはつきり見届けていたとすれば、事改めてOに対して確認するまでの必要もないし、同女がこれを否定すれば、この事実をOに告げて同女の記憶を喚起するなどしてもよい筈であるのに、ただ単にO供述との食い違いを避けるだけの理由で「ぼかした供述」をしていたとの説明にはにわかに納得し得ないこと、② Oは甲の所在に心当たりがないかどうかを聞き合わせる目的で若葉寮へ赴いたというのであるから、果たして職員室内をのぞき込むなどの行為にまで出たか否か疑問があること、③ Oがのぞき込んだ際に見かけたという被告人丁の位置に関するO証言の内容とY証言で示されている被告人丁の位置とが食い違つていること等の諸事情を併せ勘案すると、事件当夜同職員室内をのぞき込んで被告人丁の姿を現認したというO証言はにはかに措信しがたいと言わざるを得ない。

(三)  丁供述についての検討

被告人丁は、管理棟事務室にいた際Sとおぼしい女の声で甲行方不明の事実を知つたというのであるが、少なくとも、甲行方不明の事実をはじめて知つたのが管理棟事務室にいるときであつたと述べている点に関する限り、被告人丁の供述は一貫しており、その限度で、被告人丁の国賠証言は信ぴよう性を肯定できる。もつとも、誰から甲所在不明の事実を聞いたのかという点についての丁供述には一貫性を欠く部分があるものの、同被告人の国賠証言によれば、甲所在不明を知らせにきた女性の姿は目撃していないという前提の下での供述であるから、右供述の変遷にも相応の理由があると認められ、したがつて、最低限管理棟事務室において甲行方不明の事実を聞き知つたとする被告人丁の供述の信ぴよう性を動揺させるまでの供述変遷とは言いがたい。

(四)  以上の検討によると、「Oが若葉寮にきた際被告人丁が同寮の職員室にいた。」とするY・O両名の各証言の信ぴよう性には疑問の存することを否定できず、一方、管理棟事務室で甲所在不明の事実を聞いた旨の丁供述は一応信用できるものであり、これらを総合すると、被告人丁は若葉寮職員室でOから初めて甲行方不明の事実を聞いたとする検察官の主張(公訴事実第二の二)を裏付ける証拠は不十分と言わざるを得ない。

二 被告人丁の国賠証言の主観的虚偽性及び偽証の犯意について

前説示のとおり、被告人丁に対する公訴事実に関して検察官のいう客観的真実、すなわち、① 昭和四九年三月一九日の午後七時五〇分ごろから午後八時二〇分ごろまでの間、被告人丁は若葉寮職員室にいたこと、② 同被告人は若葉寮職員室にいた際Oから聞いて初めて甲行方不明の事実を知つたことの各事実については、いずれも、これを裏付ける証拠がないと言わなければならない。

そこで、被告人丁が本件国賠訴訟において証言するとおり、前記時間帯に管理棟事務室にいたもので、かつ、同事務室にいる際、Sと思われる女性の声で甲行方不明の事実を聞いたことを前提とした上で被告人丁の国賠証言の主観的虚偽性及び偽証の犯意について検討を加える。

1  公訴事実第二の一について

ここで取り上げられている証言事項は、被告人丁が公訴事実記載の時間帯に管理棟事務室にいたこと、及び、同事務室内で体験したことの両者に分けることができる。したがつて、一般論としては、右二点に関して同被告人がその記憶に即して証言しているものか否かを検討しなければならないと言えようが、同被告人に対する公訴事実の構成に鑑みると、公訴事実第二の一における「自らの記憶に反して証言する」ということの内容は、「(現実に管理棟事務室内におらず、若葉寮職員室という別の場所にいて)物理的に認識できない立場にあるのに認識し得る立場にあつたことを前提として証言した」ということであり、「物理的に認識できる立場にはあつたが、記憶にない具体的な事実を証言した」ということまでは起訴の対象とされていないと解すべきである(前記一の2参照)。

そうすると、公訴事実第二の一の関係で問題となる主観的虚偽性は、被告人丁が公訴事実記載の時間帯に管理棟事務室にいたとの記憶を持つていたか否かということに尽きると言うことができる。

この点について、関係証拠を検討すると、被告人丁は昭和四九年三、四月当時から一貫して右時間帯には管理棟事務室にいたという記憶を有していたことが明らかであつて、証言時にこれと異なる記憶を持つていたと窺わせる事情は皆無であるから、右事実に関する国賠証言に主観的虚偽性がなく、いわんや偽証の犯意を云々する余地もないことは言うまでもない。

なお、仮に公訴事実第二の一記載の具体的な証言内容につき、「合理的な過程のもとに喚起された記憶に基づく証言」と言い得るか否かを論ずる余地があるとしても、右証言は、管理棟事務室内で被告人丙がボランティアのHのもとへ乙子の写真を届けるのについて、約束の時刻に間に合うかどうか不安を感じたすえ被告人丙の腕時計をのぞき込んだこと、外出先で買い求めたバナナ・稲荷ずしを取りに行くため若葉寮職員室に赴き、その時たまたま電話中のY保母と出会つたことのそれぞれに関し被告人丁なりの記憶に基づいて証言したものと認め得る可能性を否定しきれない本件証拠状況の下では、主観的虚偽性ないし偽証の犯意につき合理的疑問を克服できるまでの証拠は存しないと言つてよいであろう。

2  公訴事実第二の二について

この点についての被告人丁の供述経過をたどつて見ると、同被告人は当初から一貫して管理棟事務室で甲行方不明の事実を聞き知つたと述べており、したがつて、これに関する国賠証言につき主観的虚偽性を云々する余地はなく、いわんや偽証の犯意を問題とする必要のないことは明白と言えよう。

もつとも、公訴事実第二の二記載の甲行方不明の事実を誰から聞いたかという点に関する同被告人の供述には多少の変遷が認められるものの、同被告人は国賠証言で誰から聞いたか断定的に供述しているわけではなく、右事実を告げてきた女性の姿を現認していないとの前提で、「多分Sと思う。」旨証言しているのにとどまるから、この関係でも主観的虚偽性を認めることは許されないと言うべきである。

第六結論

以上のとおり、被告人両名がそれぞれの証言時の記憶に反して虚偽の証言に及んだとする本件各公訴事実については、これを肯定するに足る証拠がないので、刑事訴訟法三三六条にのつとり、主文のとおり判決する。

(裁判官山之内紀行 裁判長裁判官角谷三千夫及び裁判官池田美代子は職務代行を解かれたため署名押印することができない。裁判官山之内紀行)

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